F1日本GPとホンダの歩み(中編)
「歓喜の継承と、突きつけられた現実」

◆前編>>セナ・プロ対決と中嶋悟の登場にファンが熱狂した時代

 熱狂の1990年代を終えて、2000年代の鈴鹿は「次世代の台頭」と「苦難の季節」を同時に迎える。

 2002年、佐藤琢磨が母国で見せた魂の5位入賞は、日本中のファンを再び歓喜の渦に巻き込んだ。

しかし、ホンダの第3期活動終了や鈴鹿での開催一時中断など、激動の荒波が押し寄せる。

 さらに2015年、かつての黄金コンビ「マクラーレン・ホンダ」が復活を遂げるも、待ち受けていたのは「GP2エンジン」と揶揄される屈辱。中編では、歓喜と絶望が交錯した激動の時代、それでも挑戦を止めなかったホンダと鈴鹿の歩みを辿る。

【F1】日本GPとホンダの歩み(2)佐藤琢磨の初入賞に歓喜し...の画像はこちら >>
(6)【2002年】佐藤琢磨が母国で初入賞。鈴鹿が歓喜に包まれた

 中嶋悟から始まった日本人のF1レギュラー参戦の流れは、1999年の高木虎之介(アロウズ)をもって一度途切れ、2000年~2001年は日本人ドライバーがいない日々が続く。しかし、2002年にF1デビューを果たした佐藤琢磨(ジョーダン)が、初めての母国グランプリで歓喜をもたらしてくれた。

 前年に「F1登竜門」と言われるイギリスF3でチャンピオンを獲得し、未来のF1ドライバーが集まるマカオF3も制した佐藤には、デビュー前から大きな注目が集まった。しかし、シーズンが始まるとジョーダンチームの資金難の影響もあり、開幕から思うような結果が出ない。

 シーズンが進むにつれて、周囲の期待する目も変わっていった。だが、シーズン最終戦の日本GPには金曜日のフリー走行から多くのファンがサーキットに詰めかけ、スタンドは佐藤を応援するジョーダンのイエローカラーで埋め尽くされた。

 母国凱旋を待ちわびていたファンの声援を背に、佐藤は予選で快進撃を披露。自己ベストの7番グリッドを獲得し、決勝レースでも序盤からトップ6をかけた攻防戦を展開する(この年まで6位以内がポイント圏内)。

最終的に5位入賞を飾り、苦戦続きだったシーズンの締めくくりのレースで念願の初入賞を果たした。

 なお、日本人ドライバーが母国でポイントを獲得したのは、1990年に鈴木亜久里(ラルース)が3位表彰台を獲得した以来。この日は15万5000人のファンが詰めかけ、スタンドは12年前を彷彿とさせるような大歓声に包まれた。

 2003年、佐藤はB・A・Rホンダのリザーブ兼テストドライバーに就任し、最終戦の日本GPのみ急遽参戦することになって6位入賞。さらに、2004年はアメリカGPで自身初の3位表彰台を経験し、大きな注目を集めて迎えた10月の日本GPは、台風の接近に伴いF1史上初めて予選が日曜朝に順延されるハプニングもありつつ4位入賞を果たすなど、3年連続して母国レースでのポイント獲得を成し遂げた。

(7)【2006年】スーパーアグリ始動。鈴鹿F1は「しばしお別れ」

 2006年は、ホンダが第3期F1活動で大きなターニングポイントを迎えた。B・A・Rホンダとして戦った前年までの流れから一転して、チームの株式を100パーセント取得して「ラッキーストライク・ホンダ・レーシングF1チーム」として参戦する。

 ハンガリーGPではジェンソン・バトンが初優勝を果たし、第3期のホンダF1で唯一となる勝利を飾った。余談だが、2007年と2008年には環境問題をテーマにした「アースドリーム・プロジェクト」を立ち上げ、スポンサーロゴのない車体に大きな地球儀を描いて話題にもなった。

 さらに、日本人として初めてF1の表彰台に上がった鈴木亜久里がチーム「スーパーアグリ」を立ち上げて参戦。同じくF1で表彰台の経験を持つ佐藤を擁し、各グランプリを回った。

 鈴鹿サーキットでの日本GPも「20周年」という節目を迎えた。ただ同時に、翌年から富士スピードウェイで開催されることが決まり、鈴鹿でのF1はしばしお別れとなる。ファンやレース関係者は感謝を込めて「ありがとう鈴鹿」というメッセージを掲げ、決勝日は日本GP過去最多となる16万1000人の動員を記録。3日間の合計36万1000人も過去最多だった。

(8)【2015年】苦難のホンダ第4期「GP2エンジン」の屈辱

 リーマンショックの影響を受けて、2008年で終了となったホンダの第3期F1活動。その後、トヨタも2009年にF1を撤退したほか、2012年いっぱいでフジテレビでのF1地上波も終了となった。この年は小林可夢偉(ザウバー)が日本GPで3位表彰台を獲得して盛り上がったが、2013年から日本GPの観客動員数は大きく減り、決勝動員数も10万人を下回った。

 そんななか、かつての盟友であるマクラーレンとタッグを組み、ホンダが再びF1に挑戦することを発表する。2014年からエンジンに関するルールが変わったことを機に、2015年から参戦する形で準備を進めた。

 そのマシンのシートに座るのは、フェルナンド・アロンソとバトンという、両者ともにチャンピオンに輝いた経験を持っているトップドライバー。この最強布陣で挑み、かつてのアイルトン・セナとアラン・プロストの時のような連戦連勝を期待する声も大きかった。だが、いざシーズンが始まるとトラブルの連続で、予想以上の大苦戦を強いられた。

 それでもホンダは試行錯誤しながら前進していったが、迎えた10月の日本GPで強烈な出来事が起きる。決勝レース中に何度もオーバーテイクされたアロンソが無線で「GP2エンジン!」と発言し、世界中で話題となったのだ。

 その後、マクラーレンとホンダは2017年にパートナーシップを終了する。ただ、ホンダは不屈の精神で挑戦を続け、2021年にレッドブル・ホンダとしてドライバーズチャンピオンに輝いた。

(つづく)

◆後編>>角田裕毅が「桜の鈴鹿」で母国入賞 アストンマーティンと巻き返しを図る

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