文武両道の裏側 第24回
スタンリー翔唯(東京大学野球部)前編
昨年11月、東京大学の現役野球部員でありながら、司法試験に合格したスタンリー翔唯(かい/新3年)。合格から半年近くが経ち、現在は野球に没頭するスタンリーに、ここまでに至る道のりを振り返ってもらった。
【"最強の資格"合格にホッとした】
ーースタンリー選手は司法試験の予備試験を経て、昨年11月に本試験に合格しました。受かった時はどんな思いでしたか?
スタンリー翔唯(以下同) シンプルにホッとしたというのが一番大きかったです。予備試験に受かってから3年が経っていたので、忘れてしまっていた部分をメインに勉強して臨みました。
ーーホッとしたというのは?
東大の2年から3年になって本格的に野球をしながら並行して司法試験に臨むとなると、勉強時間を確保するのが難しいなと感じていました。だから昨年がラストチャンスかなという気持ちがあって。それでホッとしたという感じでした。
そして、今はようやく将来について考えられるようになってきました。やっぱり司法試験合格は日本で"最強の資格"のひとつだと思うので、その資格を使ってどんな仕事をしようかとか。
ーー野球についてはいかがでしょうか?
野球のほうも、時間的にもそうですが、精神的にも司法試験の勉強をしなくていいのは大きくて、そのぶん集中できていると思います。これまでは、いつも頭の片隅には司法試験があるというか、家に帰ってから勉強しなくてはいけないという、ちょっと憂鬱な気分を持ちながら野球をしていた部分は少しありました。それがなくなっただけでも非常に大きいかなと思います。
【両親はやりたいことをさせてくれた】
ーーでは、さかのぼって話を聞いていきたいと思います。スタンリー選手と野球との出会いはいつでしょうか?
保育園の頃です。父とのキャッチボールが野球との最初の出会いだったと思います。
ーー子どもの頃のスタンリー選手に対する両親の教育方針は?
特別な教育をされたというのはありません。ただ、僕がやりたいようにやらせてくれました。ひとりっ子だったので、基本的に僕がしたいと言ったら、「覚悟あるならいいよ」という感じで、自由にさせてくれました。
ーー自由にさせてもらっていたことを一番実感したのは、どんな時ですか?
保育園の年長の時ですね。(2009年)WBC決勝の日本vs韓国戦で、イチロー選手の決勝タイムリーヒットを見てから、本気でメジャーリーガーになりたいと思うようになって。それで両親に相談したところ、「それじゃあ英語ができないといけないね」と、小学校からインターナショナルスクールに通わせてもらいました。
当時、両親がどんなふうに考えていたかはわかりませんが、父がアメリカ人というのもあるので、僕がやりたいことを総合的に考えてくれて、通わせてくれたんだと思います。
ーーインターナショナルスクールの1年生から、野球も本格的にスタート?
そうですね。保育園の目の前に地元の小学校があって、そこのグラウンドで「光が丘コメッツ」という少年野球チームが練習していたのを知っていたので、同じ保育園の同級生5人くらいでそのチームに入りました。
【受験に向け塾に野球に大忙しだった小学生時代】
ーー小学生時代はどんな選手だったのですか?
本当に今とは正反対で、小学生の時は身体がガリガリの"守備キャラ"でした。バッティングもそれなりに打っていましたけど、どちらかというと守備が楽しくて、いいプレーした時に褒められたらうれしかった。
ーー当時、勉強のほうは?
インターナショナルスクールでも一応成績が出ていて、それはずっと1位でした。周囲に比べたら遅いほうだったんですけど小学4年から中学受験のための塾に入って、すぐに前からその塾にいた同級生たちを抜かして、校舎で1位になりました。
ーー野球と勉強の両立をしていた形ですね。
野球をメインに考えていましたね。高校では甲子園に行きたいと思って、中高一貫の学校のなかで当初は智辯和歌山に憧れていましたが、当時は和歌山県周辺の生徒しか入れなかったのもあって、早稲田実業がいいかなと。最終的に早実の中等部を受けることにしました。
ーー早実中等部の受験に向け、スタンリー選手はどんな毎日を過ごすようになりましたか?
たぶん、小学6年が一番勉強したんじゃないかな。とくに土日は朝6時に起きて、塾に行って、午後2時頃まで模試を受けて、そのあと野球の試合へ参加していました。模試は野球のユニフォーム姿で行っていました。
電車や親の車で移動しながらおにぎりを食べて、試合の途中から参加していたので、何というか、試合のテンションに馴染むまで大変でした(笑)。
午後5時頃に試合が終わったら、家に帰って夕飯を食べて。
ーー今振り返ると、どんな思い出ですか?
野球も勉強も、どっちも夢中だったと思います。早実に合格したあと野球部に入ってチームメイトに聞いてみたら、みんな小学5年で少年野球をやめて受験勉強だけに集中していたと。野球を小学6年まで継続していたのが僕くらいだったので、そういう意味では野球も勉強も楽しめたのでよかったですね。
【これはかなわない......早実での挫折経験】
ーー晴れて早実中等部に入学し、勉強では中学1年の最初のテストで学年1位だったとのこと。野球部にも入って、すべてが順調だった感じでしょうか?
早実の高等部で甲子園に出るのが最大の目標だったので、中等部での野球はまだまだスタート地点という感じでしたが、中学2年の時、ケガをしてしまったんです。
ーーどこをケガしたんですか?
野球肘でした。正直、ケガをした当初はそんなに大ごとだとは思っていなかったんですけど、大学病院まで行って治療してもなかなかよくならず、しばらくバッティングも含めて練習ができなくて、すごく悔しい思いをしました。
ーー治るまでにどれくらいかかりましたか?
半年くらいは投げられなかったです。中学2年の秋には自分たちの代になって、そこから中学3年の試合にはまったく出られなかったので、だいぶ楽観的なところがある自分でも「何やってんだろう......」みたいな気持ちはありました。
ーーそうして早実の中等部から高等部へ。高等部で甲子園に出場するという最大の目標に向かっていくわけですね。
そんな簡単なものでないってことは、もちろんわかっていました。そもそも早実高等部の野球部にはスポーツ推薦の生徒が9人いて、このうちのふたりが自分と同じショートで、しかもめちゃくちゃうまいと聞いていて......。
ーースポーツ推薦の選手とのポジション争いが待っていた、と。
推薦のふたりでセカンドとショートをやると想定すると、レギュラーは厳しいと思っていて、正直、控えのメンバーに入れればいいかなくらいの感じでした。実際に入部すると、推薦のふたりだけでなく、一般入試でもうまいショートが入ってきて、これはかなわないなと思い、僕は投手に転向しました。
ーー投手に?
肩はそこそこ自信があったので。ピッチャーならベンチに5、6人は入れるので、そのチャンスにかけてみようと。でも、高校2年の時に、選手としてやっていくのは厳しいなと思うようになってきました。
僕はとにかく早実の野球が好きだったので、残りの1年間をずっとBチームでやるよりは、何かしらの形でチームに貢献したほうが、早実が甲子園に行くために力になれるかなと思いました。そこで選手としては引退し、学生コーチになる決断をさせてもらいました。
後編につづく
<プロフィール>
スタンリー翔唯 すたんりー・かい/2003年1月20日、東京都練馬区生まれ。小学1年から野球を始める。










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