プロ野球ブルペン史
岡田彰布が語る阪神最強リリーフ「JFK」誕生秘話(前編)
2026年のペナントレース開幕直前、救援投手を称える新たな年間表彰『HIKESHI(ひけし)賞』の設立がNPBより発表された。従来のセーブ、ホールドとは違い、ピンチをしのいで失点を阻止した貢献度など、独自の指標で算出した獲得ポイントで争われる。
NPBとともにHIKESHI賞を設立した損保ジャパンは、かつて、救援投手を表彰する『ファイアマン賞』を協賛(1981年~2002年/※当時は安田火災海上保険)。同賞が発足した当時、昭和のリリーフは「火消し役」と呼ばれており、新たな賞は更新された令和版とも言える。その意味では、日本プロ野球のブルペンの歴史を感じさせるものだ。
そこで今回、新賞の誕生を契機に、ブルペン史に燦然と輝く「火消し役」を取り上げたい。2005年の阪神で結成され、同年のリーグ優勝に大きく貢献し、一時代を築いたJFK。果たして、史上最強の勝ちパターンはいかにして生まれたのか。
【「もうタイムリミットや」から始まった改革】
「ブルペン陣がね、みんながすごいんですよ。みんなが力あるんで。だから、誰を出しても、勝ってるゲームはそれで逃げきってくれると。まだ、JFKまではいかないですけどね」
2023年9月14日、甲子園球場。阪神監督(当時)の岡田彰布は言った。18年ぶりのリーグ優勝を決め、胴上げされた直後のインタビュー。
7回、8回、9回をひとりずつで抑える必勝リレー。今では当たり前の継投策だが、原点にJFKが位置づけられる。
ただ、星野仙一監督で優勝した2003年、抑えで活躍した左腕ウィリアムスはともかく、久保田は大学出の新人右腕。高校出5年目右腕の藤川も一軍戦力ではなかった。それがいかにして2年後、一気にトリオで開花したのか。当時は三塁ベースコーチだった岡田に聞く。
「2003年のリリーフは、ウィリアムスと安藤(優也)、吉野(誠)やったな。ただ、3人って決めてなかったんや。最後はウィリアムスやけど、まだホールド王のタイトルがなかったからな。それで監督を引き受けた時、投手は編成替えせなあかんなと思ってた。
勇退した星野に代わって、岡田が監督に就任した2004年、伊良部は35歳、藪、下柳は36歳。2003年は24歳の井川慶が20勝で最多勝、MVPに輝いたなか、そのベテラン3人で計31勝を挙げていたが、案の定、2004年は3人で計13勝に終わることになる。
野手のほうは、36歳の4番・金本知憲が元気だったうえ、内野手の関本健太郎が高校出8年目で台頭し、ドラフト1位ルーキーの鳥谷敬が即戦力。どちらかと言えば、投手の「編成替え」が急務だった。それでも周りからは連覇を期待され、それなりの補強もして臨んだシーズン。混戦のセ・リーグで5月には首位に立ったが、夏場まで勝率5割をキープするのが精一杯だった。
「それと、2004年は8月にアテネがあったからな、オリンピックが。均等に各チーム、ふたり出したんや。ウチは安藤と藤本(敦士)を出したけど、オーストラリア代表でウィリアムスも持っていかれたんや。それで、うしろがふたり抜けたから、ちょうどええわと思って、久保田と藤川をそこに当てはめたというかな。まあ言うたら、来年用のテストケースみたいな感じやった」
7月28日、首位を走る中日に敗れ、8.5ゲーム差とされた試合後、岡田は「もうタイムリミットや」と発言。
【「もう先発させてませんよ」】
この時、アテネ五輪の日本代表となった安藤、ウィリアムスの代役に久保田、藤川を抜擢。この年、6試合に先発していた久保田はもとより、本来、藤川も先発候補だったから、抜擢は配置転換でもあった。
「どっちかいうたら、先発失格みたいなケースやったよね。最初、藤川は2002年に先発やった。オレが二軍監督の時、夏ぐらいやったかな......。『右の若いので、先発いけんのおらんのか?』って星野さんが言うたんよ。その時に『藤川は?』って聞かれたけど、『もう先発させてませんよ』と言うたんや。本人には『もう長いイニングはあかん。おまえはうしろで、短いイニングで勝負せえ』って言うてたしな」
背番号30から、名前の「きゅうじ」にちなんだ92へ変更した2002年。藤川は12試合に先発し、9月にはプロ初勝利を挙げたものの、成績は1勝5敗。68イニングを投げ、防御率3.71だった。
左足を上げた際に必要以上に軸足(右足)を折るフォームが原因で、肩やヒジに負担がかかり、故障しがちだった。
「藤川は先発しても、いつも5回ぐらいでやられとった。それに故障もあったしな。久保田は1年目から投げとったけど。そういうことがあって、やっと故障も治って、8月にテストできたんや。二軍では短いイニングを投げとったけど、一軍ではそれがスタートやったんとちゃうかな。アテネのおかげでね」
藤川は、故障が治っただけではなかった。2004年の春先、肩痛で二軍に降格した際、二軍投手コーチの山口高志から指導を受けた。
「もともと体は柔らかいのだから、軸足を折らずに、左足をスッと上げたらそのまま前に出ていくくらいの意識でいいんじゃないか?」
この助言を受けてフォームを改良。上半身への負担が減り、テークバックで力が抜け、球速は5キロほど上がった。岡田もその成長を実感していた。
「ボールはよかったよ。井川が入って(1997年ドラフト2位)、次の年に藤川が入って(98年同1位)、対照的というかな。重そうなボールを投げる井川と、スピンがかかる藤川。ボールの質は全然違ったけど、高校生で期待されて、ドラフト上位で入ったピッチャーやったから、それはもうボールはよかった。まあ藤川、(体の)線はめっちゃ細かったけどな、最初は」
【久保田智之を9回にした理由】
ボールが「重そう」とは打者目線の感覚でもあるが、久保田も重そうな速球を投げていた。埼玉・滑川高(現・滑川総合高)時代に正捕手兼投手として甲子園で活躍し、投手に転向した常磐大では3年時に153キロを計測。阪神入団1年目には"球団最速"(当時)となる156キロを出している。その体格もあいまって「重そう」だった。
「そう、久保田も重そうやったよな。それで久保田の場合は体力があるとかないとかよりも、先発としてやるには球種が少なかったんよ。それはちょっとしんどいんちゃうかなというのと、どちらかと言うたら、力任せにボンボンいくほうやから。そういう意味では、うしろ向きかなぁ、と。
久保田を9回の抑えにした理由は、延長戦での続投が前提だった。今ではめったにない起用法だが、そのタフな抑えがプロ初セーブを記録したのは、2004年8月28日の広島戦。つづく9月、10月で3セーブを挙げ、同年は28登板で4勝4敗4セーブ、防御率4.04だったが、69イニングで69個の三振を奪っている。着実に、2005年に向けての準備が進められていた。
一方、8月から一軍のマウンドに上がった藤川は26試合に登板。真っすぐは常時140キロ台後半を計測し、フォークの球質も上がって決め球になり、31イニングで35個の三振を奪った。得点圏に走者を背負った時の強さも光ったが、ではなぜ、藤川は7回だったのか。
「バッターからの立場で、7回は『ラッキーセブン』言うやろ。7回に点が入る確率が高いから『ラッキー』やと。そんなら、ボールに勢いがあるピッチャーをそこに持っていって、ギャフンと言わす。3人のなかで、藤川は一番実績がなかったけど、ボール自体は一番勢いがあったからな」
原則、「右、左、右」でいきたいという考えもあった。それに藤川から久保田とつなぐと、ボールに勢いのある投手がつづき、相手打者の目が慣れやすい面もある。そこで変則左腕のウィリアムスをはさみ、相手の目先を変える。相手打線の右、左の並びによって、ウィリアムスが7回に行く例外も想定したうえで2005年を迎えた。
2月、沖縄・宜野座キャンプ。岡田はマスコミの前で繰り返し「コマジン」と言っていた。なにかと思えば、横浜(現・DeNA)の佐々木主浩にあやかり、藤川の背番号を22に変更していた。「大魔神まではいかないけど『小魔神』や」というのが岡田の言い分だった。そのニックネームに対するマスコミの反応は鈍かったが、この年、小魔神は大魔神に匹敵する存在になった。
(文中敬称略)
つづく>>
岡田彰布(おかだ・あきのぶ)/1957年11月25日生まれ、大阪府出身。北陽高から早稲田大を経て、80年のドラフトで阪神から1位指名され入団。勝負強い打撃を武器に、阪神の主力として長く活躍。85年のリーグ優勝、日本一にも貢献。94年にオリックスへ移籍し、95年に現役引退。引退後は指導者としての道を歩み、2004年に阪神の監督に就任。05年には強力リリーフ「JFK」を擁してリーグ優勝。10年から12年までオリックスの監督も務めた。23年に阪神の監督へ復帰すると、18年ぶりのリーグ優勝、さらに38年ぶりの日本一へと導き、采配力と勝負師としての資質をあらためて証明した。24年限りで監督を退任し、オーナー付顧問に就任した。










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