プロ野球ブルペン史
岡田彰布が語る阪神最強リリーフ「JFK」誕生秘話(後編)
セットアッパーの藤川球児、ジェフ・ウィリアムス、抑えの久保田智之──。のちに「JFK」と呼ばれる3人の継投が最初に決まったのは、2005年4月3日のヤクルト戦だった。
だが、久保田は次カードの広島戦でサヨナラ打を浴びるなど、4月は不安定。それでも配置転換はなされず、抑えとして投げ続けた。この時、起用するほうはどんな心境だったのか。当時の監督である岡田彰布に聞く。
【史上最強リリーフ"JFK"の誕生】
「オレが頭で描いてたんは、7回に藤川、8回にウィリアムス、9回に久保田という流れだったけど、最初、周りのファンの人とかは、藤川と久保田は大丈夫かな、みたいな意識は持ってたろうな。開幕からそんな『JFK』とかないし、言うたらおかしいわな(笑)。交流戦からやろ? 名前がつき始めたのは」
同年から始まったセ・パ交流戦。当時は1チーム36試合を戦うなか、阪神は21勝13敗2分でセ・リーグトップ。21勝のうち、藤川、ウィリアムス、久保田が揃い踏みした試合は8勝負けなしだったことから、3人の存在に注目が集まり出した。
そして交流戦後も勝ちパターンは崩れず、7月10日の中日戦に3人揃い踏みで15連勝した翌11日、スポーツ紙の見出しに初めて「JFK」が登場した。
「途中からね、相手があきらめるんよ。6回までに1点でも勝ってたら。もうそうなったらこっちのもんというか、そういうふうにせなあかんわな。
やっぱり向こうは、負けてんのに勝ちゲームのピッチャーを使いたくないやんか。それで負けゲームのピッチャーが投げてきたら、こっちは1点、2点取れる。だから、9回には3点差になってる。9回に投げるピッチャーは、3点差やったら気持ち的に楽になるし、セーブもつくし、そらええよな」
6回までしか点を取れない野球。7、8、9で反撃できない野球──。極端に表現すれば、そんなふつうではない野球が、JFKによって成立していた。6回で1点ビハインドなら、ふつうは反撃ムードが高まるものだが、2005年の阪神はわずか1点でそのムードさえつくらせなかった。岡田の発想どおり、ラッキーセブンがなくなっていた。
【下柳剛が規定投球回未満で最多勝】
反対に、阪神は先発が5回、6回まで投げればよかった。井川慶、福原忍、同年から先発転向の安藤優也は完投もあったが、ベテランの下柳剛は先発24試合で投球回は132回1/3。
「もう、下柳が投げてる時が一番忙しかったよ。6回で終わりだから、下柳は絶対、火曜日には投げさせなかったもん。火曜日って6連戦の頭だから。頭はなるべくピッチャーを使いたくないから、完投できるようなピッチャーしか先発させんかった」
当然、JFKもすべての勝ちゲームで使うわけにはいかない。それでも中日と首位を争っていた8月、全20試合の長期ロード。藤川、ウィリアムスは8連投もあった。投手の健康状態を気遣い、「3連投させない」起用が標準になった今では考えられない。だが、当時のリリーフはそこまで投げ続けた。
「いやいや、こんなんねぇ、何連投させたらあかんとか言うけど、勝ってたら使うのは当たり前やん。そんなん、お客さんに悪いよ。
その代わり、負けてる時は出せへんやんか。そこはお客さんもわかってるよ。ということは、勝ってる時にはやっぱり投げさせなあかん、それは絶対に。何連投させないとか、オレは全然関係なかった」
球場に見に来るファンのための起用。健康状態を気遣う今の起用法でも、故障で長期離脱する投手がいるのも事実。何が正しいのか、一概に言えないなかで、岡田の強い主張が響く。
「ただ、チームが(勝率)5割をウロチョロしてる時にな、1点差ぐらい負けてる時に、よく勝ちゲームのピッチャー使うやんか。それは絶対にせんかった。3連敗、4連敗している時に、『1点負けてるけど、おまえ行ってくれ』ってなるとあかん。
勝ちゲームでは連投しても、負けゲームでJFKの登板はなかった。ゲームを拾って、連敗を止めるべく、僅差のビハインドで勝ちゲームの投手を起用するケースは今でもある。だがそれをやると、投手の負担が増え、モチベーションも上がらないと、岡田は理解していた。そこで負けゲームでは桟原将司、橋本健太郎、江草仁貴が登板。役割分担が明確で、同年のブルペンには6人しか入れなかった。
【3人揃い踏みの勝率は8割6分超え】
最終的に、ウィリアムスは75登板で3勝3敗0セーブ、37ホールド、76回2/3で防御率2.11。藤川は80登板で7勝1敗1セーブ、46ホールド、92回1/3で防御率1.36。久保田は68登板で5勝4敗27セーブ、3ホールド、80回2/3で防御率2.12。
前年まで実績がなかった藤川が登板数で日本記録(当時)を達成し、最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した。
そして、3人が揃い踏みした49試合では39勝6敗4分。勝率は8割6分を超え、同年のチーム87勝のうち4割以上。まさにJFKあってのリーグ優勝だった。
4連敗したロッテとの日本シリーズでは輝けなかったが、のちに3人とも口を揃え、「ふたりがいたから頑張れた」と言っている。岡田から見ていて、その関係性はどうだったのか。
「1回、藤川をうしろ(抑え)で行った時があったんや。久保田、あんまり調子よくなかったから。2006年の仙台やったと思うけど。そしたら久保田が『監督』って来よって、『なんで僕じゃなかったんですか?』って。次また甲子園戻って来て、9回は久保田やったんやけど、その時、オレ、マウンドに行ったんよ(笑)。あいつびっくりしとったわ。『ええっ?』とか言って。『なんや? おったらあかんのか?』言うて(笑)」
前日の楽天戦、久保田は延長10回にサヨナラ打を浴びていた。リリーフ投手が失敗を引きずらないよう、岡田は以前から挽回の機会をすぐに与えていた。しかし、この時は本人の調子を鑑みて回避。
「そうよ。やっぱり、あいつらもね、プライドあるやん。順番的には。ホールド王とセーブ王の違いもあるし、久保田も納得いかなかったよな。ただ次の年、配置替えでうしろを藤川に代えた時は、力と力やわ。久保田も納得しとったよ」
2007年は藤川が抑えとなり、日本記録(当時)の46セーブを挙げる。8月末から9月にかけて10連投で10連勝もあり、チームは一時首位に立つも、その後は失速して3位に終わる。
【久保田智之の先発転向でJFK解散】
一方で岡田は久保田に対し、「おまえ、藤川に勝つのは登板の数だけや。それだけ抜けや」と提言。久保田はその言葉どおり、90試合登板で日本記録を樹立する。それも、勝ちゲームか同点のケース限定だった。
2008年は序盤からチームは好調で7月には首位を独走。87試合で優勝マジックが点灯した。だが、北京五輪の日本代表に藤川、矢野輝弘(現・燿大)、新井貴浩が選ばれ、新井が故障した影響もあって8月は停滞。
そのなかで巨人の猛追を受け、直接対決での7連敗も響き、優勝をさらわれて2位に終わる。岡田は逆転負けの責任を取って辞任。JFKもJとKが安定感を欠き、翌2009年、Kの先発転向で"解散"となった。
岡田は2010年からオリックス監督に就任。先発で勝てない平野佳寿に加え、前年10勝の岸田護もリリーフに転向させたあたり、JFKの再現が念頭にあると思われた。
「あれも先発で結果が出んから、そういうことになってしもたけどな。結果が出てたら、ふつうに先発で投げさせてるよ」
ブルペン史上最強の勝ちパターンをつくった岡田ゆえに、なにより「うしろ」重視と思い込んでいた。だが、その口ぶりから、やむを得ず、不本意ながらリリーフを整備するに至ったと聞こえる。結局は、先発が一番大事なのだと。
「そらそうよ。絶対、先発が大事よ。先発で勝ち試合をつくれたら、リリーフなんていらんねんから」
(文中敬称略)
岡田彰布(おかだ・あきのぶ)/1957年11月25日生まれ、大阪府出身。北陽高から早稲田大を経て、80年のドラフトで阪神から1位指名され入団。勝負強い打撃を武器に、阪神の主力として長く活躍。85年のリーグ優勝、日本一にも貢献。94年にオリックスへ移籍し、95年に現役引退。引退後は指導者としての道を歩み、2004年に阪神の監督に就任。05年には強力リリーフ「JFK」を擁してリーグ優勝。10年から12年までオリックスの監督も務めた。23年に阪神の監督へ復帰すると、18年ぶりのリーグ優勝、さらに38年ぶりの日本一へと導き、采配力と勝負師としての資質をあらためて証明した。24年限りで監督を退任し、オーナー付顧問に就任した。










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