関節技の鬼 藤原喜明のプロレス人生(14)
(連載13:UWF移籍までの経緯 新日本プロレス退団時のアントニオ猪木の言葉に「俺は必要ない人間なんだ」>>)
プロレスラー藤原喜明はサラリーマンを経て、23歳で旗揚げ間もない新日本プロレスに入門。アントニオ猪木、カール・ゴッチの薫陶(くんとう)を受け、道場で関節技の技術を磨き、新日本プロレス最強伝説の礎を築いた。
そんな藤原が激動の人生を振り返る連載の第14回は、第一次UWFの盛り上がりと、その崩壊までを語った。
【佐山サトルは「コーチにはなれない」】
藤原、佐山サトル、木戸修、高田伸彦(現・延彦)が加入したUWFは、先鋭的な格闘技スタイルでファンから支持され、後楽園ホールは常に超満員。1984年7月の「UWF無限大記念日」で2日連続の興行を成功させた団体は、藤原、佐山、前田日明の3人による「実力No.1決定戦」を企画。まず藤原と、スーパー・タイガーに改名した佐山が9・7後楽園で対戦し、その勝者が4日後の後楽園で前田とシングルマッチを行なうというものだった。
藤原とスーパー・タイガーの一戦は激闘だった。タイガーの蹴りを藤原が真っ向から受け止め、関節技で逆襲するという展開は、アントニオ猪木が標榜する「ストロングスタイル」を凌駕する内容と絶賛された。
以後、藤原とタイガーの一騎打ちは、UWFのドル箱カードとなった。同年の12・5後楽園での「ノーフォールデスマッチ」もすさまじい展開になり、「信者」と呼ばれるほどUWFに傾倒するファンを獲得した。
顔面に何発も蹴りを入れられた佐山との闘いを、藤原は回想する。
「試合は、練習と同じことをやってただけだよ。顔に蹴りを食らったけどな、プロレスラーは人ができないことをやるから高いお金をもらえるんだよ。痛いとか、苦しいっていうのは当たり前なんだ。もっと言えばな、痛みに慣れているから、試合で骨折したって気づかないんだ。
佐山についてはこう表現した。
「すべてにおいて速いしバランスがいい。ずば抜けた運動神経を持った男だよ。ただ、アイツはコーチにはなれないんだ。なぜなら、天才だから。関節技を覚えるにも、アイツは一回見たらできちゃうんだよ。だけど、俺みたいなトロくさいタイプの男は、自分で身につけるまでに『なぜだろう? もっといい方法があるかもしれない』って徹底的に考えて研究するから教えられるんだ。そこが俺と佐山の違いかな」
【柔道の試合を見て生まれた「ワキ固め」】
UWFは、従来のプロレスにあるロープワーク、場外乱闘などすべてを廃した。関節技が主体のスタイルで、観客に地味な印象を与える不安はなかったのだろうか。
「関節技が地味だって? フフフ......試合ではな、ちょっとオーバーにやるんだよ。腕にしろ足にしろ、練習ならグッと極めるところを、グ、グ、グゥ~という感じで見せるんだ。道場と試合は違って、お客さんにわかりやすいようにやるんだよ」
入門以来、関節技を研究し続けた藤原は、自身が優位なポイントを明かした。
「まず、俺は関節技が全部好きで、得意なんだ。
この第一次UWF時代に編み出した技が「ワキ固め」だった。ほかのレスラーにも広まり、米国では敬意を込めて「フジワラアームバー」と名づけられている。
「ワキ固めは、ゴッチさんから教えられたものではなくてな。36歳の時に、柔道の斉藤仁選手が韓国人の柔道家と対戦した試合をたまたまテレビで見てたんだ。その試合で韓国の選手が、立った状態からいきなり関節技を決めて、それで斉藤さんの腕がおかしくなって棄権したんだよ」
その試合は1985年9月にソウルで行なわれた世界選手権で、斉藤仁が韓国の趙容徹に「腕挫腋固」を仕かけられ、左ひじを脱臼して棄権した。
「その試合を見た時に、斉藤さんには申し訳ないけど『これは使える』と思って。スパーで研究して研究して、今の形に辿り着いたんだよ。大切なのは肩を"極める"ってこと。なぜなら、相手は必ず逃げようと手を引くから、結果として肘が極まるんだよ。
練習以外の時間でも常に関節技を考えていたからこそ「ワキ固め」は生まれた。しかも、観客にわかりやすい関節技でもある。まさに藤原だからこその必殺技だった。
「のちに猪木さんが、俺のことを『お前は天才だよ』って言ってくれたんだ。どういう意味で言ったのかはわからないけど、うれしかったよ」
【地方興行の苦戦と、佐山と他メンバーの温度差】
第一次UWFは、藤原とスーパー・タイガーの激闘を軸に、後楽園での試合はファンでごった返した。しかし地方興行では、閑古鳥が鳴く苦戦が続いた。当時は、新日本も全日本もゴールデンタイムでテレビ中継をしていた時代。電波に乗って知名度がアップする両団体と比べ、中継がないUWFの選手たちは全国的に顔が知られておらず、地方大会では観客を思うように動員できなかった。
また、UWFで最も人気と知名度があった佐山は、団体をプロレスから格闘技へ移行させようと、厳格なルールやランキング制の導入を断行した。そのなかで、藤原の得意技「頭突き」は反則とされるなど、制限されることになった。
「ハッキリ言って、俺には意味がわからなかったね。
あるテレビ番組で『ケガしたらどうするんですか?』って聞かれたことがあってな。それで俺は『私たちの世界では、治るものはケガとは言いません』って言ってやったんだよ。プロとはそういうことなんだよ。
例えば柔道で言うとな、もともとは危ない関節技や締め技もある武道だったんだ。それを、嘉納治五郎先生が五輪で柔道をやるという目標を立ててな。世界中の子供たちができないといけないから、危ない技を切り捨てて、誰でもできるようなポイント制になったんだ。それはわかるけど、俺たちはお客様からお金をいただいて見せるわけだから、ケガをしても仕方がないんだよ」
ルールに不満はあったが、佐山に直接意見することはなかったという。
「好きにやればいいよって。嫌なら俺がやめればいい。
興行が不振にもかかわらず、格闘技に変革しようとする佐山。その佐山は、自らのジムを運営していて収入は確保されていた。それが、プロレスだけで生きなければならないほかの選手との温度差を生むことになる。
不満が表面化したのは、1985年9月2日、大阪府立臨海スポーツセンターでのスーパー・タイガーと前田の一戦だった。この試合で前田は、技をほとんど受けず一方的に攻めまくった。結果は、前田が急所蹴りによる反則で敗れた。今も"不穏試合"として語られるこの一戦を藤原は、こう見ていた。
「俺から見たらいい試合だったよ。ただ、素人にはわからなかっただけの話だ。試合だから、何があったっておかしくない。相手を半殺しにするために練習をやっていたからな。俺たちがやっていたのは競技じゃないんだよ」
佐山と前田の不穏試合から9日後の9月11日、後楽園大会を最後に第一次UWFは活動を停止する。
藤原が新日本を退団し、移籍してから1年2カ月でUWFの活動は終わった。
「いろんなことがあったけど、あの時代は面白かったな」
さまざまな"実験"を行なった第一次UWF。団体として存続ができなくなった時、生きるために選択したカードは新日本への復帰だった。
(敬称略)
つづく
【プロフィール】
藤原喜明(ふじわら・よしあき)
1949年4月27日生まれ、岩手県出身。1972年11月2日に23歳で新日本プロレスに入門し、その10日後に藤波辰巳戦でデビュー。カール・ゴッチに師事し、サブミッションレスリングに傾倒したことから「関節技の鬼」として知られる。1991年には藤原組を旗揚げ。現在も現役レスラーとして活躍するほか、俳優やナレーター、声優などでも活動している。陶芸、盆栽、イラストなど特技も多彩。



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