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連載「40代現役アスリートの矜持」
後編:【ボクシング】近藤明広(全2回)

紆余曲折のキャリアを歩み、32歳のときに中量級のスーパーライト級で世界初挑戦。本場アメリカ・ニューヨークでの大勝負に敗れてもなお、あきらめずに夢をずっと追い続けてきた。

昨年、不惑を迎えて、そのチャレンジにもいよいよ区切りをつけるつもりだったが、人生は何が起きるかわからない。後楽園ホールでデビューしてから20年。41歳となったプロボクサーの近藤明広は世界のベルトを求め、東京から9000km離れた西ヨーロッパへ飛んだ。

前編〉〉〉比類なきキャリアを歩むボクサーが四十路で世界挑戦の声がかかった理由

【海外での4度目の挑戦】

 自身4度目となる海外挑戦の舞台はドイツ。2026年5月23日(現地時間)、首都ベルリンの会場は、音楽イベントが行なわれるライブハウスのような雰囲気だった。遠く離れた島国から応援に駆けつけるファンは誰もいない。確認できる日本人はセコンドのトレーナー陣を含め、少数のチームスタッフのみ。完全アウェーの状態である。

「自分の両親は来ると言っていたのですが、老後のためにお金を取っておいてほしいので、『来なくていいから』と諭しました。自分の家族にも『大丈夫だから来るな。渡航費を払うくらいなら家計に回してほしい』と伝えたんです」

 ヨーロッパを中心に活動するマイナー団体のGBC世界ウェルター級タイトルマッチ。リングの上では、君が代とともに大きな日の丸がなびく。対峙するのはトルコ人の王者ボルカン・ギョクセフ。

序盤から互角以上に渡り合う。腹を打たれれば、腹を打ち返し、一歩も引かなかった。それでも、有効打がなかなかヒットしないままラウンドは過ぎていった。

 終盤に差し掛かった9回。一気にペースを上げ、力強いパンチを打ち込んでいく。距離がぐっと近くなったぶん、被弾もあった。一発、二発と強いパンチを浴びると、リングの下から棄権を意味する白いタオルが舞う。早い判断だった。ダメージを負ったわけではない。

「8回が終わったインターバルのときにセコンドに伝えていたんです。敵地ですし、ポイントは取れていないと思ったので、『このラウンドで倒せなければ、終わりのつもりでいきます。ダメだったら、タオルを投げてください』と。

最終ラウンドまで戦い、判定まで行けて、よかったね、という年齢ではありませんから」

 防衛に成功した王者が腰にベルトを巻くなか、挑戦者の近藤は静かにリングを降り、冷静に振り返った。

【40代現役アスリートの矜持】「"負け"に負けなかったことは、人生の糧に」近藤明広が20年のプロボクサー生活を継続できた理由
5月、海外での4度目の挑戦となったドイツでの一戦はTKOで敗れた photo/ご本人提供

【ボクシングに向き合い続ける理由】

 イメージに体がついてこない。試合では初めての経験だった。実は練習から薄々気づいていた。網膜剥離が治癒したあと、トレーニングを再開しても、いつものように足が動かず、スパーリングでも調子の悪い日のほうが多かったという。毎日のように欠かさず練習をしているため、急激な体力の低下は感じていないものの、徐々に衰えているのは認めざるを得ない。

「パンチへの反応速度は少し遅くなっていました。スパーでは網膜剥離の再発が怖くて、恐る恐るやっていたのもあります。でも、その恐怖を乗り越えて、試合に臨めれば、達成感を得られるという思いもありました」

 気力はあふれていた。サンドバッグ・ラッシュをしても、ランナーズハイのような状態になり、まったく疲れを感じない。肩の痛みを感じるまで打ち続けた。もちろん、海外での世界挑戦の前でモチベーションが高かったこともある。ただ、近藤の場合、試合が決まっていない時期でも、練習に取り組む姿勢は変わらない。

昼間の仕事に追われても、ジムで汗を流し続けてきた。

 何がそこまで駆り立てるのだろうか。どこか遠くを見つめるような表情を浮かべ、ゆっくり口を開く。

「20代の頃に思うような試合が決まらず、ふて腐れて練習をしなかった時期があったんです。当時の自分に『練習しながら悩めよ』と言ってやりたいです。結局、前のジムから移籍しようとしたのですが、それもうまくいかなくて......」

 まだ自由に移籍できなかった時代である。単身でタイに渡ったが、練習する場所もなく、公園で体を動かしていた。いつになっても、その苦い記憶が消えることはない。40歳を超えても、競技に打ち込める現状に充実感を覚えている。

「僕はボクシングをしたくても、できない時期があったので。(28歳で)一力ジムに来てからは、サンドバッグを叩き、ミットに向かって、パンチを打つだけでも幸せなんです。本当に楽しくて。

1週間後に試合が決まってもいいように練習はさぼらずにやってきました」

 目の前の目標がなくても、嬉々としてジムワークに励んでいると、若手ボクサーから相談を受けることもある。希望するような試合が決まらず、ジムから足が遠のく選手も珍しくない。彼らに最初にアドバイスすることはひとつ。

「『まず練習しようか』と。モチベーションが下がるのも理解できますけど、そういうときこそ、やらないといけません。"ボクシングの神様"は見ているよって、言うんです」

【40代現役アスリートの矜持】「"負け"に負けなかったことは、人生の糧に」近藤明広が20年のプロボクサー生活を継続できた理由
競技をやりたくてもできなかった時期の経験が現在のモチベーションになっている photo by Shogo Murakami

【"負け"に負けなかったことが人生の糧に】

 信じて準備していなければ、好機を生かすことはできない。タイトルマッチのオファーは急きょ舞い込むことも少なくない。近藤自身は身を持って経験している。

 2017年11月、初めての世界挑戦は試合日まで1カ月を切った段階で話がまとまった。当時、スーパーライト級4団体(WBA・WBC・IBF・WBO)統一王者だったテレンス・クロフォード(アメリカ)がIBFのベルトを返上したことで、王座決定戦のチャンスが巡ってきたのだ(ニューヨークでの王座決定戦に挑戦し、判定負け)。長いキャリアを振り返れば、防衛戦を合わせ、日本タイトルマッチは5度、JBC非公認を含め世界戦、地域タイトルマッチは計7度も戦っている。ベルトを懸けた試合では勝ちよりも負けの数のほうが多いものの、何度もチャレンジしてきた。

「僕は運がいいんだと思います。人一倍、練習をしていれば、マネージャーさん、会長さんなど周りの人たちが動いてくれました。『こいつにいい試合を組んでやりたい』って思ってもらえるかどうかが大事だと思います」

 報われた努力ばかりではない。勝ち負けを繰り返しながら、自分を信じてあきらめずに戦ってきた。

 プロ戦績は54戦37勝(21KO)14敗3分け。埼玉県加須市で生まれ育ち、中学生の頃に畑山隆則の世界戦をテレビで見てボクシングを始めた。夢は憧れのボクサーのように『かっこいい男』になることだった。スポーツ特待生で入学した強豪の白鷗大足利高校時代は2年生までまったく勝てず、県大会の1回戦負けを繰り返した。途中で逃げ出したくなるほど追い込まれたが、それまでの倍の練習量をこなし、3年目でインターハイ準優勝の実績を残した。負けから始まった拳闘ストーリーである。東洋大学を中退し、プロに転向して以降も根本は変わっていない。

「"負け"に負けなかったことは、人生の糧になっています。

キャリアを見れば、負けは多いし、世界チャンピオンにもなれませんでしたが、かっこいいボクシング人生を歩んできたという自負はあります。埼玉の田舎で育ち、才能もなかった男が世界戦のリングに立てただけでも奇跡です。人は腹をくくって、人生を懸けて取り組めば、できないことはないと思っています」

 プロボクサー近藤明広として、過ごす時間はもう残りわずか。引退試合となる次戦かぎりでグローブを吊るす予定だ。10年以上にわたって、ともに歩み、支えてきてくれた妻との約束でもある。3児の父は柔和な笑みを浮かべ、忍耐強い伴侶に感謝していた。

「大変なときしかなかったですが、ずっと助けてもらってきました」

 現役最後のリングでは、かっこいい生きざまを見せるつもりだ。"努力の拳"をよく知る人たちは、その日を楽しみにしている。

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