リコールではなくてもデータ改ざんしたことは問われるべきだ
2017年に経営破綻したタカタの事業を概ね引き継いだジョイソン・セイフティ・システムズが、シートベルトの試験結果を改ざんした問題で、改めて製品を検査し、また自動車メーカーによる衝突実験結果なども照合しながら、規格を満たしていることを確認したとして、リコールなどの措置は取らないことになった。
改ざんが行われた原因は、試験方法が適切でなかったということである。しかし、改ざんする前に、試験が適切に実行されていたかを社内で確認することなく、改ざんという手法で逃れようとした企業姿勢は問われるべきだ。
この一件は、ジョイソン・セイフティ・システムズという一社が追求される問題ではなく、いわゆる「日本のものづくり」の根幹を揺るがす出来事といえる。なぜなら、記憶に残る範囲で過去を辿ってみても、リコール隠し、燃費性能の改ざん、完成車検査問題、そしてエアバッグのリコールなど、自動車業界への不信を抱かせる不祥事が後を絶たないからだ。
加えて、昨今の三菱電機での検査不正問題や、みずほ銀行の現金自動預け払い機(ATM)およびインターネット障害など、業界を超えた不祥事が国内では相次ぎ、しかも時間を置かず再発するなど、企業の不祥事は枚挙に暇がない。
それらの根幹にあるのは、自信過剰による慢心だ。そして企業風土は、経営者が交代しても一朝一夕には改められない体質が社内に根を張っていることも示している。
電動化という言葉にも消費者を無視した企業の都合が感じられる
日本人がいま忘れているのは、企業活動は何のために行っているのかという、素朴でありかつ根本的な理由だ。それは、消費者である人々が安心して幸福に暮らせる物やサービスを提供することにある。ところが、今回のシートベルトの試験結果改ざんをはじめとする一連の不祥事は、そうした最終目的を忘れ、自己中心的な理由をつけた保身による出来事だ。

さらに背景には、企業責任だけでなく、監督官庁といわれる行政の怠慢も考えられる。たとえば、クルマの様々な審査基準においても、30~40年も前に規定された内容が変更や更新されず、そのまま継続されている面があり、技術発展に適合できていない内容が多々ある。
なぜ行政の怠慢が起こるのか、その理由を行政側も手が足りない、調査の予算がないなど、言い訳はあるはずだが、それであるなら監督任務を手放すべきであり、それ以前に、どうすれば最先端の技術を知り、審査基準を効率よく改善できるかを考えるべきではないか。
製造現場の実態に合わない審査基準に対し、企業は矛盾を抱え、法規に違反すると知りながら試験や検査を省く、あるいは自らの都合の良いように変更してしまうことも起きているだろう。
以上のような傾向は、日本に限らず世界でも起きている。ドイツのフォルクスワーゲンによるディーゼル排ガス偽装問題が象徴的だ。

いずれにしても、いまの日本においては「日本のものづくり」という言葉さえ、疑いを持たざるを得ない。
日本の技術は、世界に誇れる水準にはあるだろう。だがそれによって過信が生まれ、自己中心的な尺度で製品を世に送り出すことを正当化してしまう。電動車や電動化といった言葉遣いにも、その兆候が表れている。消費者の存在を忘れ、自らに都合のよい安易な道を選ぼうとする精神が、本当の意味での「日本のものづくり」を蝕んでいる。