
品川駅は戦後、東京を23区に再編する際に港区に編入
1986(昭和61)年交付の鉄道事業法と、翌年交付の同法施行規則によれば、駅の設置・新設等については「認可」を受けなければならないが、この認可はあくまで安全性や事業運営の円滑性に着目したものと解され、駅名についての法的な制限は特段ない(法4条1項6号・規5条5号、法9条1項・規27条2号イ等参照)。昭和60年代の法律でさえ制限がないのだから、明治~大正時代に開業した山手線の駅名に至ってはアバウトに付けたとしかいいようがないケースが、いくつかある。
例えば品川駅。東海道の宿場町だった「品川宿」に由来する駅名だが、1872(明治5)年に建てられた初代の駅は品川宿から約1kmも離れた場所にあった。旅行・鉄道関連の著作が多い内田宗治は、品川宿には宿泊施設や人家・商店が多く、線路と駅を建設するには立ち退き問題などが複雑で時間を要するため、離れた地に建てざるを得なかったのだろうと推測している。
1878(明治11)年、東京が15区に分割されると、品川駅は「芝区」の南端に組み入れられた。それに対して品川宿のあった地は、東京の外の「荏原郡」に属することになり、駅と宿が東京の内外に分かれてしまう。
駅はその後、1896(明治29)年に現在の地に移転。一方、東京は1932(昭和7)年に市域を拡張し、20区を増設し35区となった。だが1947(昭和22)年、第二次大戦で多くの犠牲者が出て東京の人口が減少したため、各区をできるだけ均等にしようと23区に再編。このとき、すぐ南隣りに「品川区」があったにも関わらず、品川駅は港区に編入され、現在に至るのである。
こうした一連の流れを経て、駅名は品川でありながら港区に立地するややこしい事態になったわけだ。
なお、目黒駅も「目黒区」ではなく、実は「品川駅」にある。
1896(明治29)年の品川駅。すぐ隣は海である(鉄道博物館所蔵)
本家・大塚は文京区だが、大塚駅は豊島区
品川駅と似たケースに、大塚駅がある。開業は1903(明治36)年。当時の町名は「北豊島郡巣鴨村大字巣鴨字宮仲」で、巣鴨の西に位置することから、本来なら「西巣鴨駅」、あるいは地名の末尾をとって「宮仲駅」などの駅名とするのが妥当だった。現在は「東京都豊島区」に属する。宮仲の地名の由来は不明だが、「宮=神社」と考えれば、おそらく巣鴨村の鎮守・天祖神社(豊島区南大塚3丁目/旧名・十羅刹女堂)のことだろう。現在は地名としては残っておらず、山手線大塚-池袋間の上に架かる小さな陸橋「宮仲橋」と、上池袋にある小さな児童公園「宮仲公園」にその名をとどめている。
では、「大塚」の駅名はどこから来たのか? 実は本家・大塚は「文京区」にある。大塚駅から約700メートル南下した、丸ノ内線「新大塚」駅からさらに南側のエリアが文京区大塚1~6丁目で、お茶の水女子大学や筑波大学東京キャンパス、跡見女子大学などがひしめく文教ゾーンだ。東京メトロ丸ノ内線茗荷谷駅の近くには、「地名『大塚』発祥の地」の碑まで立っている。
どういう経緯かは不明だが、本来の地名のエリアからかなり離れた場所に建設した駅の名に「大塚」が採用されてしまったのだ。
また、現在は山手線大塚駅の北側の町名が「豊島区北大塚」、南側が「豊島区南大塚」となっている。駅をはさんだ位置関係が明確で合理的なようだが、「豊島区南大塚」は、「文京区大塚」の北側に接しているので、なんとも複雑だ。
地図研究家の今尾恵介によると豊島区北大塚、同南大塚の町名が誕生したのは1969(昭和44)年。このとき、文京区にはすでに大塚の町名があった。それにもかかわらず名づけてしまったことを指して、「(豊島区と文京区の)担当者間で情報交換が行われなかったのだろうか、地名政策のお粗末な一典型」と手厳しい。
東京の駅名・地名のトリビアが取り上げられる際、このおかしな事態は決まって話題となる。
千代田区・台東区・墨田区に分散している「アキバ」
秋葉原駅も紛らわしい。1890(明治23)年、日本鉄道(民営)上野-秋葉原間の貨物列車駅として誕生し、当時は正式には貨物取扱所だった。現在、駅が立地する住所は千代田区神田佐久間町。一方、1964(昭和39)年の住居表示実施の際に命名された「秋葉原」という住所は、台東区にある。
秋葉の駅名は、静岡県浜松市にある火防(ひぶせ/火災防止)の神である「秋葉山本宮秋葉神社」に由来する。なぜ、浜松の火防の神の名が東京の駅名となったのか、その歴史をたどると、そもそもは江戸時代初期、徳川家康ゆかりの浜松から江戸城に分祀(ぶんし)されたのが起源と伝わる。
その火防の神が明治維新直後、現在秋葉原駅がある場所に建設された広さ約9000坪(約3万平方メートル)に及ぶ火除地(避難場所)に勧請(かんじょう)され、「鎮火社」という神社が建った。
ところが、秋葉の神は他にもいた。約5キロ離れた場所にある向島・秋葉神社(東京都墨田区)で、同じく浜松から分祀した火除信仰の神を祭っていた。歌川広重の『名所江戸百景』にも描かれた紅葉の景勝地だった。
江戸庶民には、秋葉といえば向島の方が浸透していた、そこから、火除地の鎮火社は「向島から秋葉さまが勧請された神社」と思い込む人々が増え、また読み方も「秋葉さまがいる原っぱ」を意味する「アキハノハラ」「アキバッパラ」など、好き勝手に呼び始めてしまったのではないだろうか。実際、駅名の読み方も「アキハノハラ」「アキバハラ」と変遷し、「アキハバラ」に落ち着いたのは1911(明治44)年である。
さらにその後、火除地の敷地を割いて秋葉原駅を建設したため、鎮火社は約3km北に移転することになった。これが現在、台東区松が谷にある秋葉神社。向島とは別の神社である。
そこに加えて1964年、台東区の行政地名として秋葉原が誕生したわけで、つまり「秋葉」は駅が千代田区にあり、神社が墨田区と台東区、行政地名は台東区という、何とも混乱した事態に陥っているのである。 その「アキバ」が、今では日本文化の聖地として世界中に知れ渡っているのだから不思議である。

『山手線「駅名」の謎』小林明著・鉄人社