「国に帰れ」日本に生まれ育っても、幼少時に来日しても…“在留資格”を得られない外国人青年たちの苦悩
8月4日、埼玉県の大野元裕知事は外務省を訪れ、トルコとの相互査証(ビザ)免除協定の一時停止を求めて外務大臣宛ての要望書を提出。“外国人問題”が争点となった参院選の直後であるが、大野知事は今回の行動について「(参院選とは)全く関係ない」と述べている。

また、5日には参政党の神谷宗幣代表が、ドイツで移民排斥などを掲げる極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」のティノ・クルパラ共同党首と国会内で会談した。
日本社会における外国人や移民に対する目線は厳しくなっている。一方で、彼らが日々生きながら抱いている感情や思いに目を向けられることは少ない。
今回は、9月に『パレスチナ占領』(ちくま新書)の出版も予定されているジャーナリスト・記者の平野雄吾氏の著書『ルポ 入管――絶望の外国人収容施設』(2020年、ちくま新書)から、神奈川県厚木市で育ったイラン人青年や埼玉県川口市で育ったクルド人青年のケースを抜粋して紹介する。

来日から16年後、息子が生まれた後に摘発・収容…

「お前たちのせいで、こうなったんだろ」。2018年冬、神奈川県厚木市。寝室のベッドに座ったイラン人男性セイフォラ・ガセミ(50)は、長男ファルハッド(16)が泣きながら発した言葉に一瞬、我を失った。息子が父である自分に向かって「お前」と発したことは一度もなかった。
「もういいよ。きょうはもう自分の部屋で休んで」。そう促し、会話を打ち切ったが、平常心に戻るわけではなかった。自分に非があるのはわかる。けれど、自分にはこの状況を打破するすべがない。
横に座る妻リリアナ(49)は「何とかなる」と口にするが、不安ばかりが膨れあがる。
セイフォラは1992年2月、イランの首都テヘランから単身、来日した。23歳だった。1980~88年のイラン・イラク戦争に従軍、テヘランに戻ったが仕事はなく、家族を支えようと海外での出稼ぎを決断する。9人兄弟の5番目。父はすでに死亡していた。
当時、日本政府とイラン政府は査証(ビザ)免除協定を結んでおり、イラン人の来日は容易だった。1989年に1万7050人だった来日イラン人は1990年には3万2125人、1991年には4万7976人に達した。
戦争後の経済的苦境にあえぐイラン人にとって、バブル景気に沸く日本の労働市場は魅力的に映る。多くが15日間の短期滞在ビザで来日、そのまま不法残留となり、人手不足が深刻化する建設現場や工場で働いた。急増したイラン人の不法就労を前に、日本政府は1992年4月、査証免除協定を打ち切る。
その影響は大きく、1993年の来日イラン人は一気に4389人に激減した。
イラン人の大量来日はこの4年間に限られる一時的な現象で、セイフォラは、イラン人が自由に来日できる最後の時期にやって来た出稼ぎ労働者だった。
工事現場などの日雇いを経て1998年、友人のイラン人と一緒に神奈川県厚木市で自動車の板金塗装会社を立ち上げる。約500万円を投資し約80坪の土地に建物や設備を準備、事業が軌道に乗り始めると、2人で分けても毎月1人当たり50万~80万円の収入になった。
イランの家族には毎月10万~15万円を送金した。この頃知り合ったのが、同じく不法残留となっていた日系ボリビア三世のリリアナで、共に暮らし始めた。
2002年3月7日、神奈川県立厚木病院(現・厚木市立病院)で長男ファルハッドが生まれた。体重3800グラム。待望の男の子の誕生に胸を躍らせ出生届を提出すると、厚木市役所はリリアナとファルハッドの国民健康保険の加入を認め、出産育児一時金35万円まで支給した。もっとも2人の健康保険は2年後に打ち切られるのだが。
「当初、ビザ(在留資格)についてはあまり意識していませんでした。市役所で外国人登録ができたし、外国人登録証があると、警察に職務質問されても問題は起きません。ただ、息子の小学校入学前にビザの問題を解決したいと思い、行政書士に相談していました。
入管当局に提出する妻の父の戸籍謄本とかを準備していたところ、摘発されてしまったんです」
セイフォラは悔しそうに振り返る。
2008年5月、厚木市の会社に踏み込んだ神奈川県警と東京入国管理局横浜支局(現・東京出入国在留管理局横浜市局、横浜市金沢区)に入管難民法違反(不法残留)容疑で摘発、収容された。

「イランに行ったら、今まで日本でしてきたことが無駄になる」

仮放免で解放されたが、東京入管は2009年1月、家族3人に退去強制令書を発付、ファルハッドは6歳にして仮放免の立場に追い込まれた。その後、再度収容されたこともあり、セイフォラはファルハッドに自分たちの状況を説明する。
祖国イランでは戦争があり、日本に出稼ぎに来たこと。2週間の期限を過ぎて居続けてしまったこと……。友人の名前と電話番号を記したメモを渡した。
「もしも、パパとママが入管に捕まったら、この人たちに連絡を取りなさい。助けてくれるから」。入管当局が居場所を把握した以上、いつ再び収容されるかはわからない。ファルハッドは小学校の低学年だったが、自分の状況を理解しなければ困るのはファルハッド自身だ。父親の責任感からだった。
「正直あまり理解できませんでしたが、違反したという言葉を聞いてよいことではないんだなと思いました。
ただ、殺人とか盗みとかではないと思って安心したのを覚えています。ビザ(在留資格)についても説明されましたが、よくわからなくてピザと何が違うのだろうぐらいに考えていました」
ファルハッドは笑う。「小学校高学年になると、ビザについては理解しましたが、働いてはいけないということまでは知りませんでした」
一家は2009年に退去強制令書の発付処分取り消しを求めて提訴したが、2010年に敗訴している。それでも日本に残留した。セイフォラには帰れない宗教的な事情がある。セイフォラはイスラム教徒だが、リリアナはキリスト教徒。
イランの法律は、イスラム教徒の男性がキリスト教徒の女性と結婚する場合、女性をイスラム教へ改宗するよう義務付けている。「一家で帰ることはできないんです」とセイフォラは話す。
ファルハッドは市立中学校を卒業し、県立高校へ進学した。地域のバスケットボールクラブに参加する傍ら、大学受験のための勉強を続ける。オープンキャンパスにも参加し、社会学を学び将来は貿易関係や旅行関係で働きたいと思っていた。
大学進学に当たり奨学金を探したが、仮放免では申請資格さえない場合が多く、自分では解決のしようもない環境が圧力として16歳の心をむしばむ。
大学卒業後の就職にも不安はつきまとう。
非正規滞在者の取り締まり強化の中で、入管当局は再びセイフォラを収容した。2018年10月に仮放免となったが、約14か月間の収容生活はセイフォラの心身を疲弊させる。
「いらいらしたり、ぼーっとしたりすることが増えたんです。入管を出た後も、妻や子どもとすぐに口げんかしてしまいます。仮放免許可の更新で入管当局への出頭日が近づくと、不安で眠れなくなります」。セイフォラは頭を抱える。
「もう収容されたくはありません。収容されるぐらいなら、本当にイランに帰ったほうがよいのではないかと思うことさえあります」
2018年冬。セイフォラはファルハッドに話し掛けた。
「次にまた収容されたらどうしよう。収容に耐えられるかな。
おカネもないし。イランに帰ったらどうなるだろう」
「イランに行ったら、今までぼくが日本でしてきたことが無駄になるから困る。小学校、中学校、高校と頑張って通ったのがパーになる。イランに行ったら、小学生レベルから言葉を覚えなくちゃならないし、そんなのは嫌だ」
「いいじゃん、無駄になっても、別に」
深い意味はなかった。セイフォラはなんでそんなことを言ってしまったんだろうと思った。ファルハッドの中で我慢していた何かがせきを切る。
「お前たちのせいで、こうなったんだろ」。涙があふれてきた。やり場のない怒り。父に向けても解決はしないが、ほかにぶつける相手はいなかった。
「父の気持ちを理解しようとしたけれど、理解したら本当に帰ることになるのではないかと思ってしまって。奨学金問題もあり、たまっていたものがこみ上げてキレてしまったんです。父がなりたくて不法滞在になったわけではないこともわかっています」。ファルハッドは少し後悔しながら当時の気持ちを整理した。
「本当につらかったです」とセイフォラ。「『お前』と言われたことよりも、そう言わざるを得ない環境にまで息子を追い込んでしまった。在留資格がないということが息子の将来に影響するとは正直、考えもしませんでした。ファルハッドには自由に自分の人生を歩んでほしい。それだけなんです」
セイフォラが東日本センターに収容されていた2018年1月、ファルハッドは再び退去強制令書の裁決撤回を求めて東京地裁に提訴した。せめて子どもだけでも日本にいさせてほしい。収容生活を送るセイフォラの強い意向だった。

裁判官の人間性に左右される「在留特別許可」

入管難民法は非正規滞在者の在留を正規化する救済措置、在留特別許可(在特)制度を規定する。日本人との結婚や日本社会への定着性、人道配慮を考慮して法相の裁量(2001年の入管難民法改正で地方入管局長に権限移譲)で在留資格を付与する制度だが、在特の付与に関する入管当局の決定に統一的な基準はない。
同じような環境にあるとみられる非正規滞在者の中で、ある人は許可され、ある人は不許可になる。入管当局の決定に不服のある場合は裁判所に訴えることができるが、裁判官もまた、統一的な基準に従って判断するわけではない。
日本社会からの追放という決定は、当人にとっては懲役刑以上に重い決定だが、判断過程が非公開なことも相まって、不条理の世界を形成する。中でも、子どもを巡る在特判断の事例を検討すると、その不条理さは際立つ。
子どもが日本で築いた生活の重さと不法滞在という法違反の事実を天秤にかけ、どちらを重視するか。その判断は入管当局の担当者、もしくは裁判官の人間性に委ねられていると言っても過言ではない。
例えば、日本で生まれた当時11歳のフィリピン人一家の強制退去を巡る訴訟。東京地裁は2008年1月17日、「子どもは11歳で、未だ可塑性に富む年齢であり、フィリピンの言語、生活、社会に順応して困難を克服するのは十分に可能」と判断、入管当局による強制退去処分を追認した。
一方、同じく日本に生まれた当時7歳のペルー人一家の強制退去処分では、大阪高裁が2013年12月20日、「ペルーで生活すれば、生活面や学習面で大きな困難が生じることは明らかで、精神面でも相当な打撃を受ける。安易に可塑性があると判断するのは相当ではない」と指摘し、強制退去処分は無効だと判示している。
「可塑性」とは柔軟性のことで、わかりやすく言えば、東京地裁は「君は若いからフィリピンでもやっていける」と示したのに対し、大阪高裁は「ペルーに行ったら困難が待っているのだから、やっていけるなんて簡単には言えない」と判断したことになる。
11歳に柔軟性があって、7歳にないとの客観的な事情はなく、両者の違いは法的な根拠というよりも単に裁判官の人間性から来ている。
10代後半の青少年に対する判決でも同様である。東京地裁が2003年9月19日、当時15歳のイラン人少女一家に対し「日本で育った子どもをイランに帰すのは人格や価値観を根底から覆し、負担は想像を絶する。帰国を強いるのは人道に反する」として強制退去処分の違法性を認めた。
だが、大阪地裁は2019年11月29日、ペルー人少女(18)一家に対し「ペルーの生活様式を身につけ、新たな人間関係を構築することに伴う困難を解消することも十分可能である」と判断している。
行政には、同じような事例には同じように対応する平等原則が求められるが、そうした原則とかけ離れたところに非正規滞在者の命運がかかる在特の判断がある。
「子どもは子どもなりに友人と遊び、地域コミュニティで生活基盤をつくっています。母国といっても、見ず知らずの国です。日本で生まれ育った子どもを日本社会から追放することが国益になるのでしょうか」
元入管職員で、在特の業務にも携わった木下洋一はこう指摘し、入管当局のみが判断する現在の制度を改めるべきだと訴える。
「入管当局だけが決定権を持ち、父権主義的に帰れと命じるのはあまりに乱暴です。子どもの最善の利益が何かという判断は入管当局だけではできないし、入管にはそんな能力もありません。教育や医学、心理学など多くの専門家を交えて判断する必要があるし、そのほうが客観的で公正な結論が得られるはずです」
東京地裁(清水知恵子裁判長)は2019年2月28日、ファルハッドに判決を言い渡し、請求を棄却した。判決は「イランで新たに言語を習得し、克服することは不可能ではない。生活になじむまでに困難を伴うとしても、速やかに帰国しなかった結果、生じたものといえる」と指摘した。ファルハッドは上訴したが、退けられた。
ファルハッドは大学受験に合格し、2020年4月から神奈川県内の大学に通うことになった。いつか在特を出してくれるのではないか。法相の裁量に改めて将来の希望を託す日々が続いている。

川口市で育ったクルド人青年のケース

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川口市の「クルド人問題」が騒がれ始めたのは最近だが、ラマザンは小学生だった2006年から川口で育ってきた(K@zuTa / PIXTA)

2018年10~12月、幼少時に来日したり、日本で生まれたりしたトルコ系クルド人の4家族計20人が国を相手に、在留資格を求める訴訟を東京地裁に相次いで提起した。いずれも仮放免者で、難民申請もしている。
提訴に踏み切った背景には、来日後10年前後が経過し、子どもたちが将来の進路選択に直面、就労禁止のため身動きが取れなくなりつつあるという事情があった。正規の在留資格を得てきちんと働きたい。当事者たちの素朴な願いが込められている。
「自分が日本で働けるようになれば、同じように在留資格がなくて苦労する外国人の子どもも将来を描けるようになるのではないでしょうか」
原告の一人、ラマザン・ドゥルスン(21)は、自分がモデルケースになれると話し、訴訟の意義を強調する。現在、埼玉自動車大学校(埼玉県伊奈町)に通い、自動車関連の職に就こうと将来を描く。そのためには、自動車整備士の資格も大切だが、何よりも在留資格の取得が必要になってくる。
ラマザンは2006年10月、父親(45)、母親(40)、当時1歳だった弟(14)と共にトルコ・イスタンブールの空港から成田空港に到着した。だが、入国審査官は一家の上陸を拒否し、空港の入管施設に収容する。3日目、父親は家族と引き離され、東日本センターへ移送された。
「父と母は泣きながらしばらく抱き合っていました。父はそれから職員に連れられ、離れ離れになったんです」
当時9歳だったラマザンの記憶に父親との別れは焼き付いている。母親と弟と共に、ラマザンは在留資格のないまま埼玉県川口市に暮らす同じクルド人の叔父宅で生活を開始する。約1年後、父親が東日本センターから仮放免され一家に合流、2009年には妹も生まれた。
一家はトルコ南部ガジアンテプの出身。トルコ政府がテロ組織とみなすクルド労働者党(PKK)とトルコ治安部隊との衝突が相次ぐ中で、ラマザンの父親も銃撃され、現在も膝に銃弾が残る。政府系民兵組織に狙われたとみられている。
一家は来日後すぐに難民申請したが、入管当局は「迫害の恐れはない」として難民不認定処分を出し、以後、一家は再申請を繰り返す。在留資格はなかったが、一家の生活基盤は日本で整っていった。
ラマザンは川口市立小学校3年に編入学、約30人の学級で唯一の外国人だった。入学当初は石を投げられるなどのいじめを経験したが、人気アニメ『NARUTO-ナルト-』を見ながら半年ほどで日本語会話を身につけると、日本人との交友関係が広がる。
小学5年からは少年野球に参加、中学でも野球部に所属した。定時制高校に進学したが、問題に直面したのはその先の進路だった。一家は全員仮放免のため、ラマザンの高卒後の進路と密接に関わる。好きだった英語の勉強を続け通訳を目指したが、外国語の専門学校への入学は叶わない。
在留資格がないのを理由に、4校は電話で断られたほか、新宿区の学校からはAO入試で合格した後、急きょ校長との面接が設定され、最終的に不合格になった。明確な理由は伝えられなかったが、在留資格がないのが原因だとみられている。高校卒業が迫る2017年の秋だった。
「悔しくて泣いたのを覚えています。けれど、何に対してかはわからなかったけれど、負けたくはないという思いが湧いてきました」。ラマザンは言う。進路は決まらず、高卒後1年間は日本語学校で勉強、その後2019年春から埼玉自動車大学校に入学した。
「母国語はクルド語ですが、日本語のほうが得意で、いつも頭の中では日本語でものごとを考えています。入管は帰国しろと言いますが、いまさらトルコで仕事を見つけられません。日本に暮らすクルド人で、車庫証明の取り方や車検の方法を知らない人も多いです。そういう人たちを支え、生活の面倒を見てくれた叔父や両親に恩返しをしたいと思っています」
ラマザンは気持ちを切り替え、自動車業界での就職を目指す。
「トルコで楽に暮らせるならば、もうとっくに帰っています。仕事をしながら結婚して子どもを育てたい。日本でそういう普通の暮らしをしたいだけなんです」

国は子どもの追放にためらいを見せない

もう一人の原告、ムスタファ・チョラク(17)は「就労禁止なので、毎日昼間から友人と会って、くだらない話をするだけです。何もできない状態にさせておくことに何の意味があるのでしょうか」と、自身が置かれた仮放免という立場に疑問を投げ掛ける。
父メメット・チョラク(46)はトルコ治安部隊から拷問を受けた経験から2005年10月、日本政府に保護を求めて成田空港へ到着、ムスタファは母やきょうだい計5人で父を追い、2010年8月に来日した。
ムスタファは川口市立小3年に編入学し、続く川口市立中学ではバスケットボール部に所属、楽しく生活していたが、中2の後半から通わなくなる。「修学旅行の積立金の回収が月に2回あって、その封筒を毎回両親に依頼するのが苦痛になりました」。ムスタファは学校から足が遠のいた理由をそう説明した。
「中学を卒業したかったけれど、金銭的に親に迷惑をかけたくないという思いが強かったです。もっと勉強したいし、高校にも行きたい。
小学校の先生が歌を歌いながら教えてくれた日本語の特別授業が忘れられません。3カ月ぐらいで話せるようになったんです。将来はそんな先生のような日本語教師になりたいんですが、在留資格がなければ何もできず、このままでは生きる意味が見えてきません」
原告側はいずれの訴訟でも、子どもの強制退去は児童の保護を求める自由権規約や子どもの最善の利益を考慮するよう要請する子どもの権利条約に違反していると主張する。
一方、国側は、外国人を自国内に受け入れるか否か、どのような条件を付けるかは国際慣習法上、当該国家が自由に決定でき、国際条約もこうした国際慣習法の原則を前提としていると強調、退去強制令書に違法性はないと繰り返している。幼少時に来日し、日本の教育機関で育った子どもたちの追放にためらいを見せる様子はない。
■平野雄吾
1981年東京都生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修了。共同通信外信部記者。前橋、神戸、福島、仙台の各支社局、カイロ支局、特別報道室、外信部を経て、2020年8月から24年7月までエルサレム支局長。
近著に『パレスチナ占領』(ちくま新書、2025年9月刊行予定)。
「入管収容施設の実態を明らかにする一連の報道」で2019年平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞を受賞。初の単著『ルポ入管』(ちくま新書、2020年)で城山三郎賞など受賞多数。他の著書に『労働再審2』(共著、大月書店、2010年)、『東日本大震災復興への道』(共著、クリエイツかもがわ、2011年)などがある。


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