冬の朝、コンクリートむき出しの浴室。白く凍った息を吐きながら、水道の蛇口から滴る冷水で顔を洗う。浴槽・風呂釜も給湯設備もない「湯気のない浴室」には、水しか出ない蛇口が一つだけ。数十万円をかけて風呂釜や給湯器を自費で設置しなければ、お湯の出る生活は手に入りません。
しかも、その設置費用は原則「自費」。生活保護を受給する人でさえ例外ではなく、15年以上も冬に温かい風呂に入れず「水浴び」だけで暮らしてきた人もいます。
実際、真冬の冷たい水で毎日水浴びし、皿を洗い、洗顔を続けてきた相談者は、毎年しもやけに悩まされ、冬になると精神状態が悪化すると打ち明けてくれました。
お湯が出ない生活の厳しさは、実際に暮らしてみなければわかりません。そんな毎日は、じわじわと体力と心を削っていきます。
今回は、生活保護受給者をはじめとする、いわゆる「貧困層」の「風呂」を取り巻く事情について、自治体による改善の取り組みや、今なお残された課題等にも触れながら、お伝えします。(行政書士・三木ひとみ)
公営住宅に移りたいのに…母子家庭の現実
「公営住宅に移りたい。でも、浴槽や風呂釜は自前で用意するようにと言われました」シングルマザーのマリさん(仮名・30代)は、生活保護を受給しながら、一人娘のリカちゃん(仮名・小学校3年生)と、都市部の粗悪な造りの古いアパートで暮らしています。
前夫から精神的・経済的DVを受け、生活費は月5万円しか渡されず、貯金も削られていきました。弁護士を介して離婚し、ようやく自由を得たものの、健康不調で仕事を続けられず、在宅の仕事を細々とこなしながら、生活保護を受給しています。
今の悩みは「雨漏り」です。雨が降るたびに、雨水がしたたり落ちる音が神経を削り、子どもの布団はじわりと濡れ、翌朝にはカビの匂いが部屋いっぱいに立ちこめます。心が折れそうになるといいます。
また、ある時、リカちゃんがクラスメートを家に連れてきたところ、その子は「天井が低い」「カビが生えてる」などとあざ笑い、すぐに帰ってしまったとのことです。その時のリカちゃんの悲しそうな顔を、マリさんは今も忘れられないといいます。
転居することを思い立ち、調べてみたところ、駅も病院も近い、住環境の良さそうな公営住宅に空きがあることを知りました。しかし、ケースワーカーから返ってきたのは「浴槽・風呂釜と給湯器を設置するのに30万円かかりますが、自分で用意できますか」という冷たい返答でした。
もちろん、生活保護を受給してぎりぎりの生活をしている身では、そんな大金を用意できるはずもありません。今のまま雨漏りのするアパートに住み続けるか、水しか出ない公営住宅に引っ越すか、あるいは引っ越した上でローンを組んで風呂釜を購入するか。選択肢はどれも過酷でした。
私はマリさんから相談を受けて、家主が屋根を修理してくれないことが正当な転居理由に該当すること、生活保護制度上の転居費用の申請ができることを説明しました。
加えて、現在は、マリさんが住む自治体の公営住宅の多くで、公費で浴槽・風呂釜と給湯器設置をしてもらえるようになっていることを伝えると、マリさんは大変驚いていました。ケースワーカーから新しい制度の案内は一切なかったといいます。
「もう少し元気になったら、応募したいです」
電話口から伝わる明るい声に、マリさんの笑顔が浮かんでくるようでした。情報ひとつで生活の質も尊厳も変わるという現実と、制度を正しく伝えることの重みを改めて痛感させられました。
生活保護受給者が「風呂釜」のローン購入を強いられていた
後述するように、近年、自治体による公営住宅の整備の取り組みが進められています。たとえば、大阪市営住宅の新築物件は「原則浴槽付き」となり、民間賃貸に劣らない浴室が整備されています。梅田や天王寺といった主要駅に近い団地は、当選倍率が数百倍に達する人気ぶりです。しかし、つい最近まで、公営住宅といえば、「浴室はあるが浴槽も風呂釜も給湯器もない」という住戸が珍しくありませんでした。シャワーや浴槽・風呂釜の付いた物件は人気が集中し、空きが出ても抽選は激戦。10年以上にわたり応募し続けても当たらないというケースもあったのです。
子育て家庭でさえ、浴槽どころかシャワーすらない暮らしを強いられ、お湯を使いたければ数十万円の初期費用を自力で工面するしかないという家庭もみられました。その費用を工面できない生活保護受給者に対しても、公費助成は一切なし。
しかも、生活保護受給者の場合、爪に火をともす暮らしをしてやっとのことでお金を貯め、数十万円程度の物品を一括で購入すると、「不正受給」や「隠し財産」を疑われることさえあります。
実際に、私が過去に受けた相談で、日々の生活保護費を何年も節約して、公営住宅の抽選に当たって入居が決まり、浴槽・風呂釜と給湯器をつけたところ、近所で「あの家は、生活保護費を不正受給し、優先的に公営住宅に入った」などと噂されたというものがあります。
公営住宅の浴室は、築年数によって表情が大きく異なります。浴槽とガス釜が一体になった昔ながらの「バランス釜」がまだ現役のところもあれば、コンクリートむき出しの浴室や、レトロなタイル張りのところもあります。
たとえば、関西地方の某市の、とある現在募集中の公営住宅の間取りを公式サイトで見ると、築30年ほどで畳やフローリングはきれいに整い、窓も多く明るい印象を受けます。家賃は生活保護世帯であれば月2万円台と安価。しかも、入居のたびに畳や床を張り替えてもらえます。
ところが、浴室は蛇口が一つ、ぽつんとあるだけ。風呂釜も給湯器もありません。床も畳も衛生的で安価な家賃、しかし冬もお湯が出ない。
風呂やお湯を使いたいのなら、後述するように、初期費用30万円ほどが必要です。
入居直前に突きつけられた「30万円の壁」
上述したような、公営住宅特有の「落とし穴」のため、民間のいわゆる「貧困ビジネス」と批判されるような劣悪な住居から引っ越そうと、公営住宅の抽選の狭き門を通過してもなお、最後の最後に断念する人が多い現実がありました。少し前まで、多くの公営住宅では、浴槽・風呂釜・給湯設備・ガス工事をすべて最安でそろえても30万円ほどかかりました。さらに退去時には10万円前後の撤去費を負担しなければなりません。当選して初めてこの現実を知った人は、苦渋の選択を迫られました。
たとえば、大阪府内のある市の住宅管理センターでは、当選後の辞退があまりに多いため、申し込みを受ける時点で、浴槽設備費が工面できるか否かをしつこいほど確認されるという話をよく耳にしました。
なお、浴槽や風呂釜の「10年リース契約」の制度がありましたが、期間が長い上、リース代が月数千円かかり、生活保護の家計にとっては重い負担です。
このように、浴槽や風呂釜が、一部の人には「贅沢」で、手に入らない必需品となっていたのです。
ちなみに、筆者と親交のある便利屋業者の方によると、つい先日、同業者の仲間が大阪の公営住宅の原状回復の仕事に行き、浴槽を撤去して不用品処分で持ち帰ったものを、「どうせ売れないだろう」と思いつつフリマに出したところ、即座に10万円で売れたというのです。
需要はあるのに、安全に安価で入手できる公的ルートが乏しい現実が浮き彫りになっています。というより、もはや自費で浴槽や風呂釜を買う時代ではないにもかかわらず、知らずに「我が家に風呂を」と求めている人が多いという実態を如実に示すエピソードです。
自治体でみられる“改善の取り組み”と“残された課題”
とはいえ、自治体も、こうした事態に手をこまねいているわけではなく、改善の取り組み・努力を行っているところもあります。近年、多くの公営住宅では、老朽物件であっても公費による風呂釜・給湯器の設置が始まりました。
たとえば、大阪市では、今年4月から順次設置され、現在はほとんどの市営住宅が浴槽・給湯器付きになり、浴槽のない住戸であっても、入居後に必ず市の費用で風呂が設置されるようになりました。
また、大阪府営住宅も、今年6月から大阪市と足並みを揃え、浴槽、給湯器は公費負担となりました。
ただし、課題もあります。浴槽のない住戸に住み続けている人については設置予定がなく、取り残されたままです。また、前述の生活保護受給者が組んだローンは免除されません。
加えて、一部では前述した浴槽や風呂釜の「10年リース契約」が残っています。たとえば、前の住人が3年で退去した部屋に入居した場合、新たな入居者が残り7年のリース契約を引き継いでローンを支払っていかなければいけないという仕組みになっています。
次に、東に目を向けると、東京都営住宅では、2008年から空き住戸に順次、浴槽の設置が始まりました。ただし、それ以前から住んでいた人たちは対象外とされ、自費で風呂釜や給湯器を整えなければならず、また、修理や取り替えも自己負担で行わざるを得ませんでした。
つまり、入居した時期によって不公平が生じていたのです。筆者自身も2009年、都営住宅に暮らすママ友の家に泊まった際、風呂釜も給湯器も自腹と聞いて驚いたのを鮮明に覚えています。
しかし、長年にわたる入居者の声が行政を動かし、2020年度から試験的な改善が始まり、2023年に、東京都が浴槽・風呂釜の取り換え費用を負担する制度が整備されました。
「最低限度の生活」に「お湯」を
生活保護の運用では、家賃を支援する「住宅扶助」や、引越費用を支援する「一時扶助」があります。これらは正当な理由があれば比較的通りやすくなっていますが、一方で、浴槽・風呂釜や給湯器の設備購入は原則対象外という扱いが根強く存在しました。ごく最近になって浴槽が公費で標準設置される公営住宅が急増した一方で、昨年までに公営住宅に入居した世帯が、初期費用数十万が用意できず、風呂なし湯なし生活をしている実態があります。
「お湯の出ない団地」で暮らす人への助成をしている自治体は、東京都などごく一部に留まっています。銭湯に通うことは家計的に厳しく、現実的ではありません。
シャワーとお湯は贅沢ではなく、最低限の生活を営むために不可欠なインフラです。
都営住宅のように、既に古い物件に入居している人達にも希望者には公費で風呂釜と給湯器を設置する。全国的にそうした仕組みを整えなければ、不公平感が住民同士の摩擦を生み、新たなトラブルの火種になりかねません。
また、公的に安全認証付きで中古設備をリユースする仕組みが整えば、ネットで「10万円の中古風呂釜が即売」という異常な現象もなくなるはずです。加えて空き家の活用が進み、医療費や福祉コストの増加も抑制され、社会全体にとっても利益になるはずです。
そして何より忘れてはならないのは、そこに生きている人々の暮らしです。冷たい水しか出ない蛇口の前で震える貧困家庭の子どもや高齢者。その姿を、「自己責任」で済ませてしまう社会に、未来はあるでしょうか。夜は清潔に温まり眠りにつける。夏には汗を流す。冬には布団に入る前に体を温める。それは「健康で文化的な最低限度の生活」に不可欠な条件です。
子どもも高齢者も、誰もが当たり前にお湯のある暮らしを送れているかどうか。それは、私たちの社会の成熟度を示すものさしです。
■三木ひとみ
行政書士(行政書士法人ひとみ綜合法務事務所)。官公庁に提出した書類に係る許認可等に関する不服申立ての手続について代理権を持つ「特定行政書士」として、これまでに全国で1万件を超える生活保護申請サポートを行う。著書に「わたし生活保護を受けられますか(2024年改訂版)」(ペンコム)がある。