NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺』の主要登場人物として注目されたのは火付盗賊改方・長谷川平蔵だが、その平蔵の1歳年上で、同時代に南町奉行を務めた池田長恵(いけだ・ながしげ)は、あまり知られていない。
実績を残した半面、失敗したり上役の顔色をうかがったり、人間くさい男だった。
(小林明/ライター)

冷や飯を食わされていた大名の四男

池田長恵は岡山藩の支藩である岡山新田藩(生坂藩[いくさかはん]ともいう)の藩主・池田政晴(まさはる)の四男として、1745(延享2)年に誕生しました。江戸時代初期に名君といわれた池田光政(みつまさ)の玄孫(やしゃご)です。つまり、れっきとした大名の血筋です。
ただ、長恵はのちに同族の旗本・池田政倫(まさとも)の元へ養子に出されます。政倫は900石の旗本で、つまり明らかに格下の家に追い払われたようなものでした。おそらく母親の身分が低かったのでしょう。実際、母の名や素性は記録に残っていません。
しかし、一族の中でぞんざいに扱われていた者に限って、意外としたたかだったりします。長恵はそのケースで、1775(安永4)年、31歳で父・政倫から家督を継ぐと頭角を現してきます。38歳で幕臣の監察役である目付、43歳で京都東町奉行となり、このとき「筑後守」に叙任されました。
江戸の南町奉行に栄転するのは1789(寛政元)年、45歳のときです。同年、蔦屋重三郎が制作した恋川春町著『鸚鵡返文武二道』(おうむがえしぶんぶのふたみち)が絶版処分、すなわち発禁となった顛末が、『べらぼう』で描かれました。長恵と蔦重は同時代の人物でした。

荒療治も辞さない強硬派

長恵を語るには、京都東町奉行時代のエピソードは欠かせません。
『衛生史譚:講話材料』(1920/大正9年刊)には、1788(天明8)年に京都の大手米商人を長恵が斬首に処した話が載っています。この年、京都で大規模な火災が発生し、米が不足して高騰しました。長恵はそれに乗じて米の価格を法外につり上げ、暴利をむさぼった米屋を召し捕り、獄門としたのです。
京都の商人たちは震え上がり、以降、あらゆる物価が適正に定められたということです。
強硬な手法もいとわない果敢さがうかがえますが、一方でこの処断はむちゃで危なっかしいといわざるを得ません。江戸の町奉行には必ずしも向いていなかったでしょう。しかし、時の老中・松平定信は彼を抜てきします。その理由は、定信が推し進めていた寛政の改革自体に強引な側面があったため、あえて荒療治も辞さない長恵のような人材が必要だったからと考えられます。
風聞集『よしの冊子』には、「平蔵は町奉行を望み候。池田になられ鼻を明け申す」。
すなわち長恵に先を越され、がっかりした——と書かれています。平蔵と長恵がライバル関係にあったと見ることもできるでしょう。

平蔵は町奉行の座に就くことを願い続けましたが、火付盗賊改方を生涯務め、ついにかないませんでした。

長恵と平蔵が高齢犯罪者に示した情状酌量

実のところ、両者は1794(寛政6)年に似たような裁きを評定所(当時の最高裁判所)に諮問しています。
  • 長谷川平蔵/ある博徒に対して、慣例では100回の敲(たたき)に処すのが妥当ですが、70歳という高齢のため、重い刑は体力的に保たず命に関わります。情状酌量しても良いのではないでしょうか。
  • 池田長恵/下級武士の家の80歳の老婆が、一族の家督相続にあたって虚偽申告しました。慣例では押込(おしこめ/自宅に謹慎させて外出を禁じる)50日間ですが、老齢ゆえ減刑しても良いのではないでしょうか。
どちらも情状酌量を求めていますが、評定所は「高齢を理由に特別扱いは不可」と、共に却下の結論を下しました。「2人で張り合ってないか?」と、評定者は苦笑したかもしれません。

悪質な常習犯に対して死罪を申し渡す

南町奉行となった長恵には、興味深い判例が2件残っています。ひとつは10両以下の盗みでも死罪とした例です。
江戸時代の御定書(法典)には、
「金子(おカネ)は十両より以上は死罪、以下は入れ墨(いれずみ)敲(たたき)」
と記されていました。
カネを盗んだ場合、10両以上は死刑、以下は敲き、もしくは罪人の証明として入れ墨を刻印するというわけです。
ところが長恵は、街道の宿屋で約4両を盗んだ犯人に死罪を言い渡しました。理由は実際に盗んだのは約5両で、4両に偽装していたからです。
その手口から悪質な常習犯であることを見抜き、余罪も含めて更生の余地なしと判断し、極刑に処したのです。
2件目は「勾引(かどわ)かし」——今でいう「誘拐」「人さらい」を裁いたケース。江戸時代、女性を拉致し遊女や飯盛女(宿場町で売春する娼婦)として売り飛ばす、人身売買が横行していました。勾引かした者・組織、また売買に加担した輩(やから)は死罪でした。
しかし、長恵はある誘拐事件を犯した浪人に「江戸払い」、つまり江戸から追放するという軽い処分を下しました。実はこの浪人は、「夫が公認で売春させていた女性」の客だったのです。そんな境遇の女性なら、飯盛女として売り払ってしまってもかまわないだろうと誘拐したのですが、計画に気づいた夫が追ってきて、浪人と女を取り押さえたというのが真相でした。
本当のワルは夫——極刑はこちらで、浪人は出来心だろうから死に値しないと考えたのです。しかし、長恵の温情は評定所で認められず、浪人は島流しとなります。考えていたよりはるか上の刑に決まったことにショックを受けた長恵の姿が、『よしの冊子』に書かれています。

大黒屋光太夫に事情聴取

長恵は強気の猛者の例えとして使われる「金太郎」の異名をとっていましたが、こうした件が影響したのか、次第に幕府幹部の顔色をうかがうようになったようです。
『よしの冊子』は、
「本当に駄目な人ならいざ知らず、本来は良い人なのにどんどん臆病になっている」
と、手厳しい評を載せています。

また、松平定信が上下関係に悩む長恵の相談相手になっていた形跡もあり、越中殿(定信)と会話すると元気を取り戻すなどと書かれています。
長恵は南町奉行を約6年務め、1795(寛政7)年に名誉職である大目付となります。旗本が就ける役職としては高位でした。
長恵が歴史に名を残すことになった、ある事件についても触れておきましょう。大黒屋光太夫がロシアから帰国した際、面談して事情聴取したのが長恵でした。その様子は『北槎異聞』(近世の北辺関係資料の基本的文献を翻刻・刊行した『北門叢書』の中の1冊)に収められています。
大黒屋光太夫は物資を輸送する廻船(かいせん)の船頭でしたが、1782(天明2)年に嵐に遭いアリューシャン列島まで漂流し、ロシアに救われたのち、9年後に帰国します。光太夫に同行し、北海道の根室までやって来た使節がアダム・ラスクマンでした。ロシア皇帝による日本との通商希望の書状を携えていましたが、幕府は長崎への入港のみを許可し、ラスクマンを帰国させます。
その後、江戸に召し出された光太夫と乗組員の磯吉に会ったのが、長恵です。漂流した事情にはじまりロシアの人々や風土、山や河川の様子などを直接聞いています。当時にあっては極秘情報だったでしょう。

長恵は海外事情をいち早く耳にするという、貴重な経験をした日本人だったといえます。冷や飯を食わされていた大名の四男としては、面白い人生を送ったのではないでしょうか。
(了)
    【参考図書】
  • 『武士の評判記』山本博文/新人物ブックス
  • 『江戸の名奉行』丹野顕/文春文庫
  • 『鶴遺老 : 池田筑後守長発伝』岸加四郎/井原市教育委員会
  • 『衛生史譚 : 講話材料』/関以雄
  • 『「北門叢書」北槎異聞』大友喜作/北光書房
■小林 明(こばやし・あきら)
歴史ライター。編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。歴史ライターとしてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンラインなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。


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