「ひのえうま」明治期には“産み控え”起きなかった? 影響は“昭和”の5分の1…背景にある「日露戦争」の影響とは
2026年は十干十二支の「丙午(ひのうえま)」にあたる。この干支生まれの女性は「気性が激しく、夫の命を縮める」という女性差別につながる迷信が存在しており、1966年の「昭和のひのえうま」では大幅な出生数減が引き起こされた。

しかし1906年の「明治のひのえうま」では、統計にあらわれる数字を見ると、その影響は少なかった。その一因として、1904年~1905年9月に行われた「日露戦争」が影響しているという。
本記事では、計量社会学者・吉川徹教授(大阪大学)の著書『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』(2025年、光文社新書)から、「明治のひのえうま」の背景にあった社会情勢や、生まれ年の「祭り替え」について解説した箇所を抜粋して紹介する。(本文:吉川徹)

痕跡は意外に小規模

「ひのえうま」の迷信が誕生・普及した江戸期が終わり、明治維新から40年近くを経て、次に迎えたのが1906(明治39)年の明治のひのえうまです。
120歳を大還暦というのだそうですが、この年生まれの人(女性)たちが存命であれば、令和のひのえうまには、めでたくこれを迎えるはずでした。しかし残念ながら、数年前に全員亡くなられてしまいました。
若い人たちにしてみれば、昭和ですら生まれる以前の歴史なのかもしれませんが、現在の壮年以上の人びとにとっては、明治のひのえうまは歴史の彼方にあるわけではなく、わずかながら人生が重なっていた世代にあたります。
青島幸男(ゆきお)は、1932(昭和7)年生まれの「マルチタレント」で、参議院議員から後に東京都知事を務めた人です。その小説家としての著作に、1981(昭和56)年の直木賞受賞作『人間万事塞翁が丙午』があります。
主人公のモデルとなったのは著者の母ハナで、明治のひのえうま女性です。題名のとおり、昭和の戦前戦中期に波乱万丈の人生を生き、やはり夫と早くに死別するというストーリーです。青島ハナは1984(昭和59)年に77歳で亡くなっています。
この他、この年の生まれには、文学座の『女の一生』で知られる女優の杉村春子、ホンダの創業者で実業家の本田宗一郎、ノーベル物理学賞を受賞した朝永(ともなが)振一郎などがいます。

作家の坂口安吾もこの年の生まれであり、本名は炳五(へいご)といいます。また昭和期に財界人、政治家として活躍した人として、藤井丙午(へいご)の名前が残っています。男子でよかったと安堵(あんど)した親が、開き直ってひのえうまにちなんだ威勢のよい名前を付けたものでしょうか。
この1906(明治39)年には、日本はすでに世界の文明国の仲間入りをしていましたので、正確な人口統計を知ることができます。それによると、この年の出生数は139万4295人です。ただし出生数は前年比でおよそマイナス5万8000人(約4%減)、単年出生減の規模は、昭和のひのえうまの5分の1ほどにすぎません。
このことは明治以降の人口動態統計における、年間出生数の推移グラフ(アジア太平洋戦争の戦中期3年分は欠測)をみれば一目瞭然です。
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生数・出生率(人口千対)の年次推移 1899(明治32)年~2000(平成12)年 (厚労省作成)

日露戦勝の子たち

じつは、これには日露戦役が影響しています。1904(明治37)年2月の開戦からおよそ1年半にわたり、中国東北部および日本周辺海域で展開されたこの戦役は、ひのえうまの前年9月にポーツマスで講和に至りました。
日本が大国ロシアに勝ったというのは、今の国際情勢を思えば奇跡的なことだと感じられます。これを歴史小説として描いた司馬遼太郎の『坂の上の雲』でも、まことに小さな極東の新興国日本が、かろうじて勝ちを得たものとされています。
明治日本が総力を挙げて臨んだこの戦役には、当時の成人男性の4・6%にあたる約109万人もの壮丁(そうてい)が、主に徴兵により動員されました。子どもをもうける年齢の父親たちが国内に不在であった影響で、1904(明治37)年と1905(明治38)年の出生数は、それ以前よりも少なくなっています。

結果的に、ひのえうまの1906(明治39)年の出生数は、人口ピラミッドに切り欠きを残すには至らず、日露戦役の影響を受けた3ヵ年の出生数がそれ以前よりもやや少なく、その後は翌年の急回復の後、緩やかな増加に転じるという段差のような形状を確認できるにとどまります。
「ひのえうま」明治期には“産み控え”起きなかった? 影響は“昭和”の5分の1…背景にある「日露戦争」の影響とは

明治のひのえうま前後の性生年人口(『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』から転載)

そのことは同じ年齢幅の新生児出生数(人口ピラミッドとほぼ相同の形状となります)を、昭和ひのえうま前後のものと比較してみるとはっきりわかります。
「ひのえうま」明治期には“産み控え”起きなかった? 影響は“昭和”の5分の1…背景にある「日露戦争」の影響とは

昭和のひのえうま前後の性生年人口(『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』から転載)

明治時代の人口学者の呉文聰(くれあやとし)は、このときの出生数の変動をいち早く分析しています(1911年、『戦後之出生 附 丙午の迷信』、丸善)。
それによると、この時代には季節によって出生数の増減(冬から春に出生が多く、夏は少ない)が大きかったのですが、それを考慮しつつひのえうまの1906(明治39)年について月単位で前年と比較すると、年の前半から中盤には確かに出生数が抑えられているのですが、9月から12月は、むしろ前年よりも出生数が若干増えていたといいます。
これは日露凱旋(がいせん)によるものだと考えることができます。ポーツマス条約締結が1905年9月ですから、男性伴侶の帰郷後に受胎すると、およそ280日の妊娠期間を経て、ひのえうまの年の下半期に出産という計算になるのです。
このような時代状況のため、明治のひのえうまにおいては、赤ちゃんの産み控えは必ずしも多くなく、昭和のひのえうまや弘化のひのえうま(1846年)ほど顕著な痕跡(こんせき)を残さなかったのです。
当時の親たちの心情としては、この年の女の子の出生は避けたいが、出征から男性たちが戻り、人口増強的な国家政策の後押しもあるなか、早く子どもを得たい、という相反する考え方が拮抗(きつこう)していたのでしょう。

女児の祭り替え

呉は、この年の出生数の男女の偏りにも踏み込んでいます。性比(女性を100とした男性の比率、現代人の場合105から107が標準値)については、年単位でみると108・6と男子の出生が多くなっています。
ただし、これについても月ごとにみると、9月から12月は例年より女子比率が低く、相殺するかのように翌年の1月から3月には女子比率が高くなっています。呉はこれを、出生届の操作によるものだとみています。
曰く、
丙午の年に生まるる子供に就ては、従来種々の俗説を唱うるものあるが為め、父母之を忌避し(明治)三十九年に生れたる生児も暫(しばらく)之が届出を為さず、(明治)四十年に至りて之を届け出たるもの多々ありしなるべし。
旧時は之を称して生れ年の祭り替えと唱へり。今日開明の世、此ことあるべしとも思はれざりしも、実は今日に在りても尚、此ことありて然りしものなるべし(前出『戦後之出生』から、カッコ内は引用者補)
当時、出生後の役所への届出は、戸籍法により義務付けられていました。けれども自宅出産がほとんどだったので、生年月日の届出についてはある程度の自由度がありました。そこで女児については、生まれ年の「祭り替え」と称する対応がなされたというのです。
昭和期にあらためて人口動態統計を分析した人口学者の村井隆重もまた、「当時は今日のような受胎調節はいうまでもなく行われていなかった。人工妊娠中絶も同様である。したがって丙午の子を生むまいとすれば性生活を中止する以外に方法はなかった時代である。わずかに残された庶民の知恵は出生年月をごまかして届出をすることだけであった」としています(1968年、「ひのえうま総決算」、『厚生の指標』)。
同様の指摘は、計量経済学者のロールフスらのデータ分析からもなされています。
だとすると、明治のひのえうまの年の後半には、実際は届出数よりも多くの赤ちゃん(女児)が生まれていたということになります。その数はおよそ2万6000人にのぼるとされます。

なお明治以後、間引きは法により厳しく禁止されており、民間にはわずかに残存していたともいわれますが、その痕跡は人口動態統計には表れていません。
以上から、人口動態統計にみられる5万8000人の出生減の4割ほどは、出産そのものの回避ではなく、日露凱旋後の妊娠で生まれた女児の届出操作によるものだとみることができるのです。この数を勘案すると、1906(明治39)年の性比は、前後の年と同程度になります。
ひのえうまの生まれを避けるということは、各回のひのえうまで一貫しているのですが、その主たる方法は、江戸期は子流し・間引き、明治は女児の祭り替えと、全く異なっていたのです。後にみるとおり、昭和のひのえうまでは、いずれとも異なる出産回避法が用いられることになります。
ところで、祭り替えという言葉については、少し掘り下げて考えるべきことがあります。生まれ年を違う年にするというのは、いったいどういう真意によるものだったのでしょうか。
もちろん、ひのえうま生まれを避けたわけですが、親たちは本心から「旧時」にならって天の理(ことわり)を司る「神」に対して祭り替えを宣言し、易暦上の悪厄を逃れたのでしょうか。
それとも便宜上のこととして虚偽の出生届を行い、女児に将来生じかねない社会的な不利益を回避しようとしたのでしょうか。前者は民俗学的あるいは宗教学的な因習行動ですが、後者であれば、社会学的に合理性のある選択がなされたという解釈になります。
このときの親たちは、明確にこれら二つの動機の違いを意識していたわけではないかもしれませんし、動機は単純ではない可能性もあります。しかし私はやはり、人びとが本当に恐れていたのは、歴史が構築したひのえうまの社会的作用のほうだったのではないかと考えます。

そして事実、このときの祭り替えのおかげで、後の悲劇を免れた女性たちもいた、ということになります。
なお祭り替えを実践した親たちは、江戸期の人というわけではなく、明治10年代、西暦でいうと1870~1880年代の生まれにあたります。これは、すでに小学校の義務教育が法令で定められていた、近代黎明期の生年世代です。
明治のひのえうまについては、地域ごとの出生減の異なりも分析されています。それによると、東京および関東一円で出生数の前年度比減少率と性比の偏り(男子出生が多い)が大きく、中国、九州地方ではひのえうまのインパクトは比較的小さかったようです。
周縁地域にこの迷信が確実に行き渡っていなかったことが示唆される結果ではあるのですが、都道府県ごとのばらつきはさほど顕著ではありません。
むしろ、ひのえうまの出産回避(出生減)と届出操作(性比の偏り)が、北海道から鹿児島まで広範に確認されていることのほうが重要だといえるでしょう。近代国家としての歩みを始めた日本が、全国からの徴兵によって日露戦役に臨んでいたこのとき、ひのえうま出生減もまた、全国的な広がりをもつ社会現象となっていたのです。
■吉川徹(きっかわ とおる)
1966年⽣まれ。⼤阪⼤学⼤学院⼈間科学研究科博⼠課程修了。社会学を専攻。専門は現代日本社会論。
現在、⼤阪⼤学⼤学院⼈間科学研究科教授。主な著書に『⽇本の分断~切り離される⾮⼤卒若者たち~』(光⽂新書)、『学歴分断社会』(ちくま新書)、『学歴と格差・不平等~成熟する日本型学歴社会』(東京⼤学出版会)、『学歴社会のローカル・トラック~地方からの大学進学~』(大阪大学出版会)。


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