
兵庫県東部の工業都市、尼崎市の阪神本線「大物」駅で降りて南に10分足らず歩いたところに、赤煉瓦づくりの瀟洒な建物がある。2019年まで開館していた「前ユニチカ記念館」だ。
2024年10月時点では門扉が固く閉ざされ、記念館の前庭は雑草が生い茂っていた。まさに夏草茂る“つわものの夢の跡”の観があった。
尼崎紡績の発展とともに
前ユニチカ記念館は、もともと尼崎、関西を代表する紡績会社、尼崎紡績の本社事務所だった。尼崎紡績は1889(明治22)年、尼崎の商人・旧藩士らが大阪財界の資本力に頼り、共同で設立した綿糸紡績の大工場だった。
尼崎の商人・旧藩士らとしては、当時の大阪紡績(のちの東洋紡<3101>)や鐘淵紡績(のちのカネボウからクラシエ)などと伍する業容になることを狙っていた。絶対に失敗はできないという強い意志のもと、大阪財界に協力を仰いだわけだ。
発起人は尼崎側が28人で大阪側は17人だった。その大阪側の財界人代表が、当時大阪の豪商として知られた「加島屋」の広岡信五郎だった。広岡は尼崎紡績の初代社長に就いた。なお、NHK連続テレビ小説『あさが来た』の主人公・白岡あさのモデルとなった広岡浅子の夫である。
不退転の覚悟でスタートした尼崎紡績は、1891年に操業を開始。操業当時は、尼崎はもちろん兵庫県下でも最大規模を誇った大紡績工場だった。
1899年、尼崎紡績は本社工場の敷地内に本社屋を建てることを決めた。
なお、余談になるが、尼崎紡績は営業機能を大阪に置き、尼崎には巨大工場を置く経営スタイルをとった。経営は他府県で行い、生産は尼崎で行うというスタイルは他社も倣い、尼崎一帯を日本有数の工業地帯に発展させた。
尼崎紡績としては、その発展の過程で大阪と工場を結ぶ情報通信網がどうしても必要だった。まだ電話も敷かれていない時代、何より電話を求め、1893年に大阪・姫島(現西淀川区)から尼崎までの約4kmに自社で電話線を敷いた。大阪電話交換局の特別加入区域として電話を設置したことになる。
こうした経緯もあり、尼崎の市外局番は、今も大阪と同じ「06」である。当時も今も情報通信網は経済の要。尼崎紡績は国に先んじて電話線を敷設するほど、鳴物入りでスタートした会社だった。
大日本紡績、ニチボー、ユニチカの記念館として
尼崎紡績は本社事務所を建設後、M&Aを重ねて発展していった。株式会社化したのは1904年。1918年には本店営業所が大阪市内に開設されると、尼崎紡績本社事務所は尼崎工場事務所となった。
また同年、摂津紡績を合併し、社名を大日本紡績に変更している。大日本紡績としては1926年に日本レイヨンを設立している。

第二次大戦の終結も近い1945年、尼崎は空襲を受け、大日本紡績尼崎工場も甚大な被害を受けた。このとき尼崎における綿糸生産は事実上、ピリオドを打った。
ところが大日本紡績尼崎工場事務所の建物は戦禍を免れた。焦土に残った赤煉瓦の洋館。その風格ある建造物を生かすべく、1959年、大日本紡績は自社の記念館として一般公開した。当時は日紡記念館と呼んでいた。
その後、大日本紡績は1964年にニチボーに社名を変更、記念館もニチボー記念館と称した。さらに1969年にはニチボーが日本レイヨンを合併することにより、ユニチカが誕生し、ユニチカ記念館となった。なお、ユニチカの由来は「ユナイテッド・ニチボー・カンパニー」の略だとされている。
刻まれた“東洋の魔女”の盛衰
40年ほど前、ユニチカ記念館を見学したことがある。尼崎の紡績史、ユニチカの歴史の紹介パネル以上に目を引いたのは、女子バレーボールの紹介コーナーだった。
日本の女子バレーは1964年の東京オリンピックで金メダルを獲得し、「東洋の魔女」と畏怖され、欧米の女子バレー界からも一目置かれる存在になった。ユニチカの前身である大日本紡績は、その女子バレーのメンバーの多くが所属していた会社である。正式には「大日本紡績・貝塚工場」(通称「日紡貝塚」)であり、その存在は日本のバレーボール界にひときわ輝きを放っていた。
ユニチカ記念館の女子バレーボールの紹介コーナーでは、東洋の魔女の歴史も紹介していた。1923年当時、大日本紡績はブームになっていた「女子バレーボール」を社内スポーツとして導入した。当時の紡績業の担い手は女性工員であり、尼崎紡績も全国から人材を募集し、社内スポーツとして導入した頃には女性工員が3000人近くいたという。
1954年には各工場にあったチームを貝塚工場に統合し、「日紡貝塚」を結成した。豊富な人材から選りすぐった逸材で構成された組織。〝東洋の魔女〟と各国に恐れられた最強チームが誕生した。
40年前の見学当時は東洋の魔女誕生と活躍の経緯を誇らしげに紹介していた。その後、ユニチカの女子バレー部は「ユニチカフェニックス」として活躍したものの2000年には活動を停止し、V1リーグに所属する東レアローズに引き継がれることとなった。
老朽化にともない閉鎖され、新しい利活用の道を模索
「前ユニチカ記念館」は2007年、経済産業省の「近代化産業遺産」として認定され、2008年には兵庫県の景観形成重要建造物等に指定された。
2019年にユニチカは老朽化のために記念館を閉鎖し、翌年には取り壊しも考えたようだ。何にどう活用しても、耐震補強に多額の費用がかかることがネックとなった。
2020年、日本建築学会のある会員が、前ユニチカ記念館の適切な保存活用方法を検討するよう求める請願を尼崎市に提出、尼崎市議会がこれを採択した。そして2022年には記念館をユニチカが市に寄附し、敷地は同社から市が買い取ることなどを定めた。
その後、2023年に市とユニチカが敷地の売買契約を交わすとともに建物の寄附を受け入れ、前ユニチカ記念館は尼崎市が管理していくことになった。だが、2024年10月段階で、尼崎市は具体的な利活用のあり方を示すには至っていない。
文・菱田秀則(ライター)
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