〈藤本美貴デビュー20周年〉「お前で何人の社員が飯食ってると思う?」「何億かけてると思う?」と言われたソロ時代。「アイドルは青春ではなく、お仕事でした」

2002年にハロー!プロジェクトからソロデビュー、その年末にはNHK紅白歌合戦に出場…と輝かしいアイドル人生をスタートさせたミキティこと藤本美貴。その後、

に関するニュース">モーニング娘。加入、結婚、出産…とジェットコースターのような日々を送ってきた彼女は、芸能生活21年目に入った現在、何を思うのか。(前後編の前編)

東京にひとりで出てきた“冷めガキ”だった

――藤本さんはモーニング娘。オーディションがきっかけで、研修生になって、東京に出てきたんですよね。

モーニング娘。のオーディションは落ちたけど、ソロデビュー前提で東京に呼ばれてレッスンを受けるようになって…。

夢が近くにあるという期待と同時に、このレッスン何年続くんだろう…とは思っていました。

今考えると、贅沢な悩みですけどね。もともと中学生になったくらいから、歌手になるために自分でお金を貯めて東京に行かなきゃと思っていたんですよ。北海道の田舎に住んでいたので、まずオーディションをたくさん受けるために東京に行かないと…と。それが早まってラッキーでした(笑)。

――中学生でそういう考えに至るのは、かなり早熟ですよね。

姉からは“冷めガキ“って言われていましたね。
どこか冷静で、自分のことを他人として見てたんですよ。あとは、思いついたら一直線なんです。保育園の年長くらいのとき、カラオケに行って演歌を歌ったら祖母や大人たちが褒めてくれて、「じゃあ演歌歌手になろうかな」って(笑)。初めての夢が「歌手になりたい」で、それしか夢を持ったことないんです。

〈藤本美貴デビュー20周年〉「お前で何人の社員が飯食ってると思う?」「何億かけてると思う?」と言われたソロ時代。「アイドルは青春ではなく、お仕事でした」

念願のソロデビューはさすがにプレッシャー

――ハロー!でソロデビューが決まりましたが、その前には松浦亜弥さんがソロで華々しい結果を残していました。

プレッシャーはありましたね。ハロプロにすごく勢いがあったので、売れなきゃいけないという、無言の圧力がありました(笑)。

まったく子ども扱いされず、いきなり「お前で何人の社員が飯食ってると思う?」「お前に何億かけていると思う?」と言われて、「はい、わかってます」と答える17歳でした(笑)。そんなこと言われても…と思いながらも、がんばるしかなかった。

〈藤本美貴デビュー20周年〉「お前で何人の社員が飯食ってると思う?」「何億かけてると思う?」と言われたソロ時代。「アイドルは青春ではなく、お仕事でした」

――ソロデビュー直後には、ごまっとう(後藤真希、松浦亜弥と組んだ3人組グループ)としても活動しましたね。

あやや(松浦亜弥)は先輩ですけど、年齢は自分のほうが2つ上で同じソロというのもあって仲よくしていました。でもごっちん(後藤真希)とは、ハロプロのコンサートでも楽屋も違うし一緒にやる曲もなくて接点がなかった。すごく売れてる人…という印象しかなかったんですけど、一緒に活動してみたら全然裏表のないすごくいい人で(笑)。

気さくで喋りやすくて!

――あの当時、マイクの持ち方、いわゆる“後藤持ち”(マイクの下を小指で支える独特の持ち方)と言われる持ち方を強制されて、藤本さんが反発していましたよね。

つんくさんが「統一しよう」と言って、それで「持ちづらいな。マイクの持ちかたなんて、どうでもいいじゃん!」とか言ったかも(笑)。ごまっとうのことはあまり覚えていないんですけど、一番後輩だけど同じグループなら対等だから2人についていかないと、といい意味でプレッシャーを感じていたのは覚えています。

風邪でもレコーディングして直後に点滴…!?

――ソロデビューしてからは、どういう生活だったんですか?

ソロデビューからの1年が、芸能生活の中で一番忙しかったです。歌番組、正月と夏のハロプロコンサート、レコーディング…スケジュールがなくて1日3曲、深夜までレコーディングしたり。疲れて風邪ひいて、熱がありながらレコーディングした曲もありました。

身体の節々が痛くて、イントロまで椅子に座っていて、始まったら立って歌って、そのまま救急病院に行って、「眠るために痛みを消す点滴をしてください」って言って点滴してもらって、帰って寝て、また次の日仕事で…みたいな感じでしたね。

〈藤本美貴デビュー20周年〉「お前で何人の社員が飯食ってると思う?」「何億かけてると思う?」と言われたソロ時代。「アイドルは青春ではなく、お仕事でした」

――かなり過酷だったんですね…。デビューしたその年の年末には紅白歌合戦に出場しました。

紅白歌合戦は、家族が喜んでました。祖母が一番喜んでくれたかな。それで、紅白が終わってそのまま事務所に連れていかれ、モーニング娘。

に入ります、って言われるという(笑)。でもモーニング娘。に入ってからのほうが時間はありました。メイクの時間も順番だから、入りの時間を遅くできたり、もし風邪をひいて倒れても誰かがやってくれる。代わりがいないソロって本当に大変だったな、と今でも思いますね。

――モーニング娘。に入ると聞いたときは、正直嫌でしたか。

「今? 何で?」「私がですか?」「入るんですか?」って(笑)。でも言われたときはTVのカメラも入ってるから、「嫌だ」と言えず、「はい…」しかなかったです。

――6期メンバーの同期の3人、亀井絵里さん、道重さゆみさん、田中れいなさんとはどういう感じだったんですか。

どんな感じもなにも、特になにもなかったですね。あの3人は初めて芸能界に入って、モーニング娘。になって、お仕事をして…目まぐるしい日々を過ごしていて、私がどうとかいうどころじゃなかったんじゃないかな。でも可哀想でしたよね。いきなり経験者が同期で入ってくるなんて。自分としては、同期がいるようでいないような感覚でした。

――当時、田中さんと藤本さんは仲が悪いんじゃないかって噂になっていました。

そうそう! そう言われてますけど、まったく仲が悪かったことはなかったですね。

――ではメンバーの中で、一番最初に仲よくなったのは誰ですか?

よっすぃー(吉澤ひとみ)ですかね。歳も近いし、よっすぃーはどこかの派閥に混ざるタイプじゃないのが私と同じでなんか気が合いました。別に何をするわけでもなく、同じ空間にずっとふたりで座ってる…まるで夫婦みたい(笑)。互いにそっと寄り添う感じでしたね。用事があったら「ねえ」って話す、みたいな。今でもたまに、連絡したりしています。

モーニング娘。おとめ組で心を入れ替えた!?

――モーニング娘。おとめ組(2003年9月~2004年3月の期間、メンバーを2ユニットに分け、モーニング娘。おとめ組、モーニング娘。さくら組として活動した)としての活動もありましたが、楽しかったと発言されていましたね。

楽しかったっていうか、モーニング娘。加入からおとめ組の前までは、反抗期だったんです。誰とも話さないみたいな(笑)。ですが、そろそろちゃんとがんばらないと…と、心を入れ替えられたタイミングがおとめ組でした。メンバーを半分に分けられて、対立構造みたいにさせられるから、ちょっとこれは、がんばらないとなって。やっぱり、負けたくないんで(笑)。

――負けたくないという感じだったんですね! 当時見てた時は、まったくわかりませんでした!

実はそうなんです(笑)。おとめ組として団結しなきゃという感じでした。おとめ組がなかったら、ずっと反抗期が続いていたかもしれません。

――そんな中、ガッタス(ハロー!プロジェクトメンバーらを中心としたフットサルチーム)としての活動も始まりました。

最初、“ハロプロメンバー全員1回練習に行け”と言われて、10人くらいが選ばれたんです。その時、私は選ばれてなかったんですよ! それでスポフェス(ハロー!プロジェクトスポーツフェスティバル2003)を東京ドームでやったときに、私がいないガッタスの試合があって。終わったあとに監督の北澤豪さんに「入らない?」って言われて、「でも私、選ばれてないですからね。入ってほしいんだったら入りますけど」って、入りました(笑)。

――結果、入ってよかったですか?

入ってよかったです! 元々運動自体も好きだし、負けず嫌いだし、すごいいい環境を用意してもらえましたし。ひとつの目標に向かって、先輩後輩、グループとか関係なくやるというのがよかったですね。

〈藤本美貴デビュー20周年〉「お前で何人の社員が飯食ってると思う?」「何億かけてると思う?」と言われたソロ時代。「アイドルは青春ではなく、お仕事でした」

――ですが、アイドルとフットサルの両立はものすごく大変だったんじゃないですか?

大変でしたけれど、大変よりも「楽しかったな」しかないですね。本当に、青春でした、めちゃめちゃ楽しかったです。

――アイドルは青春ではなかったんですか?

アイドルはお仕事です(笑)。決まった振り付け、踊り、ダンス、歌詞があって、つんく。さんが表現したいものを表現するお仕事。でも楽しくないっていうことじゃなくて、プロとしてお金を払って見に来てくれたお客さんに喜んで帰ってもらわなきゃいけないお仕事だと思っていました。ガッタスは“やらされてる”のではなくて、自分が選択して“やってる”。

――何で10代の時からそういう思考に、なっていたんでしょうか。

“冷めガキ”だからじゃないですか(笑)。みんながお金を払って来てくれているなら、楽しませて帰さなきゃいけないと、職人みたいに考えていました(笑)。ライブはお客さんありきで、みなさんがいないとライブもできない、みなさんがいるからライブが楽しい…当時からライブって、お客さんがいて完成されるものだと思っていましたね。

取材・文/岩岡としえ 撮影/キンマサタカ