
1991年11月24日、クイーンのボーカリスト、フレディ・マーキュリーがケンジントンの自宅で死去した。今から約30年前の出来事だが、いまだに日本でのクイーン人気は衰えることを知らない。そこで今回はクイーンがミュージシャンとして軌道に乗った1974年と、大ヒット映画『ボヘミアン・ラプソディ』のクライマックスとして描かれた1985年のライヴエイド出演について紹介しよう。
ファーストアルバムは「グラムロックの残りカス」と評された
1973年9月5日、フレディ・マーキュリーが27歳の誕生日を迎えたのは、クイーンがファーストアルバム『戦慄の王女』をリリースして2ヶ月が過ぎた頃だった。
アルバムにはドラマチックな展開やハイトーンなシャウトといった、クイーンの特徴的なサウンドが現れていたが、批評家からは「グラムロックの残りカス」などと酷評されてチャートインすることすら叶わなかった。
この頃のクイーンはまだほとんど無名で、数多くある野心的なバンドの一つに過ぎなかった。
しかしアメリカでは、83位ながらもアルバム・チャートでトップ100入りを果たすことができた。ドラムのロジャー・テイラーによれば、それが最初の兆候だったという。

『戦慄の女王』(Universal Music)のジャケット。エフェクトをふんだんに使っていることや楽曲の構成の複雑さから、1973年発売当時は酷評を受けた
10月からはデヴィッド・ボウイから提供された『すべての若き野郎ども』がヒットして人気を集めていたバンド、モット・ザ・フープルのツアーで前座を務めることになった。
批評家からはダメ出しされた彼らの音楽だったが、ライブに来た観客の反応はとてもよく、回を重ねるごとにファンは増加。遂にはモット・ザ・フープのツアーにもかかわらず、観客の半分がクイーン目当てに観に来るほどになった。
そんな中、同じプロダクションのデヴィッド・ボウイと仕事をしていた写真家のミック・ロックを紹介されたことから、バンドのヴィジュアル・イメージを固めるための写真撮影が行われる。
ここで撮影した、上半身裸で化粧をした男4人の写真は、またしても批評家から酷評を集めることになったが、これによってクイーンのイメージは確立したのだ。
「僕たちはいつでもトップグループだと思っていたからね」
ツアーで各地を回る中で、クイーンのパフォーマンスは洗練されていくとともに着実にファンを増やしていき、74年2月には人気テレビ番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』への出演を果たす。
そして3月8日には満を持してセカンド・アルバム『クイーンⅡ』をリリース。前作以上に壮大なスケールで、構成もより複雑かつダイナミックに展開していく内容だった。

レコード発売当初は「サイドホワイト」「サイドブラック」と各面が分かれ、「A面」「B面」という区別がなかったという『クイーンⅡ』(Universal Music)
レコード発売当初は「サイドホワイト」「サイドブラック」と各面が分かれ、「A面」「B面」という区別がなかったという。
レコードのA面とB面、つまり表と裏でブライアン・メイ作曲の“ホワイト・サイド”と、フレディ・マーキュリー作曲の“ブラック・サイド”に分かれていた。
そしてフレディの世界は、人喰い鬼の戦いを描いた「オウガ・バトル」で幕を開ける。
「『オウガ・バトル』はもの凄く……ヘヴィなんだ。僕の言ってるのはいわゆるヘヴィ・メタル的な意味合いでのヘヴィじゃなくて……とにかくめちゃめちゃヘヴィなんだよ」
同じ3月にはクイーンにとって初の単独ツアーが始まり、3月31日には伝統あるレインボー・シアターでのコンサートに出演。熱気あふれるバンドの演奏とともにフレディのパフォーマンスは輝きを放ち、この大舞台を見事に成功させるのだった。
わずか半年で、無名だったバンドから注目を集めるバンドとなったクイーンだったが、そのことについてフレディはさほど動揺しなかったという。
「僕たちはいつでもトップグループだと思っていたからね」
『Queen - Ogre Battle (Official Lyric Video)』。Queen Officialより
その一方で多忙な日々は肉体的にも精神的にもかなりのプレッシャーで、各メンバーは悪夢にうなされることもあり、相当に参っていたようだ。
それは、バンドの人気がまだ完全なものではなく、薄氷の上に立たされているようなものだという不安の現れだったのかもしれない。
そんな悪夢を払拭するためにクイーンは休むことなく、モット・ザ・フープルとともに今度はアメリカ・ツアーに出る。
この時はギタリストのブライアン・メイが肝炎で入院することとなり、ツアーは中断。アメリカ制覇は叶わなかったが、残されたメンバーはすぐさま新しいアルバムの制作に取り掛かった。
そして11月には3枚目のアルバム『シアー・ハート・アタック』をリリースし、全英チャートで2位という大ヒットを記録する。こうしてクイーンの快進撃はまだまだ続いていくのだった。
売上が全盛期の半分ほどまで落ち込み「過去のバンド」扱いだったが…
20世紀最大のチャリティ・コンサートといわれるライヴエイド。数々の超大物ミュージシャンが集う中で、最高の評価を得たのはクイーンだった。
1985年当時、クイーンはレコードの売上が全盛期の半分ほどまで落ち込み、批評家たちから「過去のバンド」という烙印を押されていた。
その一方で各メンバーはソロ活動に力を入れており、メディアでは再三にわたって不仲説や解散説が取り沙汰されていた。
そんなクイーンにライヴエイドへのオファーをしたのが、主催者にしてアイルランドのバンド、ブームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフ。
クイーン側はボブのことをほとんど知らず、しかもコンサートの全容も見えなかったということもあって、そのオファーを断った。しかし、クイーンのツアーについて回るというボブの熱心なアプローチによって、コンサートの主旨が伝わってクイーンは出演を承諾する。
そして1985年7月13日。ライヴエイドはイギリスやアメリカをはじめ、世界各地で同時開催された。
『Queen:1985年 運命の「ライヴ・エイド」(エピソード 30)』。Queen Officialより
アメリカのJFKスタジアムにはボブ・ディラン、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、エリック・クラプトン、ニール・ヤング、レッド・ツェッペリン、マドンナなど、錚々たる顔ぶれが揃った。
イギリスのウェンブリー・スタジアムにはポール・マッカートニー、ザ・フー、デヴィッド・ボウイ、エルトン・ジョン、フィル・コリンズ(アメリカでも出演)、スティングなど、こちらも負けず劣らずのミュージシャンが集まり、昼の12時からおよそ9時間に渡って次々とステージに登場した。
その模様は全世界(80ヶ国以上)に向けて衛星生中継され、およそ19億人が目撃したと言われている。
「クイーンはもう過去のバンド」という烙印を払拭するのに最高の舞台
18時40分頃、当時人気の絶頂にいたマーク・ノップラー率いるダイアー・ストレイツに続いて登場したのがクイーンだった。
1曲目を飾ったのは、イギリスで史上最も売れたシングルとも言われるクイーン最大のヒット曲『ボヘミアン・ラプソディ』。
『Queen – Bohemian Rhapsody (Official Video Remastered)』。Queen Officialより
普段のコンサートでは必ずと言っていいほど終盤に歌われるこの曲で幕を開けるというサプライズに、ファンはもちろん、そうではない大多数の観客も熱狂し、72,000人で埋め尽くされた会場は大合唱に包まれた。
そこからクイーンはMCもほとんど挟まず畳み掛けるように、『RADIO GA GA』『ハマー・トゥ・フォール』『愛という名の欲望』『ウィ・ウィル・ロック・ユー』『伝説のチャンピオン』を次々と演奏。与えられたわずか20分という枠の中で、全身全霊のパフォーマンスを見せた。
実はクイーンは、他のどのミュージシャンよりもこのライヴエイドのステージに賭けていた。
選曲からリハーサルに至るまで一切の妥協をせず、持てる全てを注ぎ込んで臨んだのは、「クイーンはもう過去のバンド」という烙印を払拭するのに最高の舞台だったからだと、フレディ・マーキュリーは語っている。
「僕たちはロックスターとしてまだ脚光を浴びたいと思っているし、これは絶好のチャンスだった。それは正直に言おう。確かにライヴエイドはいいことをしているわけだが、見方を変えれば全世界という観客を相手に中継されるわけだ。それも僕たちの狙いであることは忘れてはいけない」
クイーンはポップカルチャーを創り出すロックバンドであると同時に、ビジネス面でも本人たちに才覚があったのだ。
後日、イギリス中の各メディアがライヴエイドを報道した際、以下のようなフレーズが用いられた。
Queen Steal the Show at Live Aid
(クイーンがライヴエイドで主役の座を奪う)
文/TAP the POP 写真/shutterstock
〈参考文献〉
『クイーン 華麗なる世界』(シンコーミュージック・エンタテイメント )
『クイーン 果てしなき伝説』(ジャッキー・ガン&ジム・ジェンキンズ著/東郷かおる子訳/扶桑社)
『フレディ・マーキュリー 孤独な道化』(レスリー・アン・ジョーンズ著/岩木貴子訳/ヤマハミュージックメディア)