
1980年12月8日、20世紀最大のロック・バンド、ビートルズのリーダーであるジョン・レノンが自宅前で射殺された。そのショッキングなニュースが起こる数時間前、ジョンはオノ・ヨーコと世界で最も有名になった写真を撮っていた…。
世界で最も有名な肖像写真家
アニー・リーボヴィッツ──彼女の名前から一体何を思い浮かべるだろう?
あらゆるミュージシャンの表情をとらえたロックなカメラマン。
映画スターや経済人たちセレブリティ御用達のカメラマン。
最先端のファッションメディアで斬新なイメージを撮り続けるカメラマン。
政治や戦争の代償を切り取るジャーナリストとしてのカメラマン。
世界中を年中飛び回るスターカメラマン。
そして家族や風景といった素朴な写真を愛するカメラマン。
そのどれもが彼女の本当の姿であり、世界で最も有名な肖像写真家であることには間違いない。
アニーは1949年10月、大家族の三女としてアメリカのコネチカット州で生まれた。軍人だった父の影響で引越しが多く、そのたびに車に乗って移動した。

NYのマダムタッソーにあるアニー・リーボヴィッツの蝋人形
幼い女の子は車窓というフレームを通して、人々や風景を観察していたのだろう。ベトナム戦争の赴任でフィリピンにも移り住んだことがある。高校生になると、アニーはサンフランシスコへ戻った。
時は1960年代後半。シスコの街にはヒッピーが集い、愛の思想を世界に広げようとしていた。そう、フラワームーブメントだ。
アニーは美術学校で写真を学ぶことになり、通りで反戦運動を撮ったり、アパートでロック・ミュージックに目覚めていった。
ちょうどその頃、シスコではヤン・ウェナーが『ローリング・ストーン』誌を創刊させる。

自由な編集方針で書き手たちに好きなことを書かせて、ロック・ジャーナリズムの礎を築こうとしていた。アニーはすぐに編集部を訪れ、自分を売り込んだ。
必死で仕事をしていると、何とジョン・レノンのインタビュー撮影の機会に恵まれた。
20歳という若さ。無名のカメラマンの自分。そんな不安はすぐに現場で吹き飛んだ。ジョンは彼女を一人の人間として変わらずに扱ってくれたという。
数年後。
チーフカメラマンとなったアニーは、『ローリング・ストーン』誌を舞台に様々なミュージシャンたちをフィルムに収めていく。
「俺が見えないものを見てる」キース・リチャーズ
ロック界のスターたちはいつも一緒にいるアニーをそのうち気にしなくなり、空気のような存在になったので、心を許して自由に写真を撮らせた。
しかし、ローリング・ストーンズの1975年のツアー同行は、周囲に猛反対された。そこにはドラッグの誘惑があり、ヤンに言わせれば「みんなヤク中になって帰ってくる」のがオチなのだと。
この頃のツアー先のホテルでの記憶が一切ないというキース・リチャーズは、アニーが撮った自分の姿を見つめながらこう言った。
「俺が見えないものを見てる」
1975年のローリング・ストーンズのツアーのライブ映像。『The Rolling Stones - Star Star - From The Vault - LA Forum – Live In 1975』。The Rolling Stonesより
一方で失敗もある。
反核コンサートで意気投合していたブルース・スプリングスティーンやボニー・レイットやジャクソン・ブラウンらがスタジオに集まった時、アニーは平凡な写真しか撮れず、革命的な機会を逃したとベテランに怒られた。
以来、被写体である人が何者であるかを伝えることを心掛けるようになり、一度見たら忘れられないような写真を残すことを誓った。
例えば、フリートウッド・マック。世界的な成功の裏でバラバラだったメンバーたちを、一つのベッドに上下方向で並べた。
映画『ローズ』に主演したベット・ミドラーには、バラの花の絨毯を作って寝かせたり(1本1本トゲを抜いた)、ブルース・ブラザースはベルーシとエイクロイドの顔が青く塗られたりした。
だが、一番有名なのはジョン・レノンとオノ・ヨーコの写真だろう。
ジョン・レノンが射殺される数時間前、1980年12月8日午前…
それは1980年12月8日午前のこと。
二人が住むダコタ・ハウスのベッドでの撮影。
脱ぐことに抵抗があったヨーコは、服を着たまま横たわる。すると裸になったジョンがキスをして抱きしめる。アニーのカメラがその一瞬をとらえる……。
その夜、アニーはジョンが死んだことを知った。この写真は『ローリング・ストーン』誌でジョンの追悼号の表紙として、何の見出しもつけずに印刷された。
たった1枚の写真の力に、世界中の人々が涙した。
アニーはその後、ドラッグのリハビリを乗り越えて『ローリング・ストーン』誌を去り、1983年に『ヴァニティ・フェア』誌に移籍。ロックのイメージから脱却する。
中でも1991年、映画スターのデミ・ムーアの妊婦姿ヌードは賛否両論を巻き起こし、発売禁止の事態や女性論争のきっかけを作った。

ジョン・レノンとオノ・ヨーコが暮らしたNYにあるダコタ・ハウス
また、1998年にはファッション誌『ヴォーグ』に移籍。奇想天外かつ高額予算なセットやロケで、著名人やモデルたちと独特な写真世界を創造。
それでもアニーは、家族や子供たち、親しい人たちの写真を撮る時間を大切にしている。老いた父の最期を撮り、深い関係にあったスーザン・ソンタグの晩年も撮り続けた。
スーザンの勧めで1993年にサラエボに出向いた時は、死と向き合う人々の姿に胸を打たれた。帰国後に控えていた大スター、バーブラ・ストライサンドの撮影には何の意味も感じなかった。
文/中野充浩 写真/shutterstock
*参考/ドキュメンタリーDVD『アニー・リーボヴィッツ/レンズの向こうの人生』