29歳の内田裕也が“ロックの助産師”という生き方を選んだ理由「男としていちばん輝いてる10年間は、人のために尽くしました」
29歳の内田裕也が“ロックの助産師”という生き方を選んだ理由「男としていちばん輝いてる10年間は、人のために尽くしました」

今から5年前の2019年3月17日に亡くなった内田裕也(享年79歳)。邦楽ロックの基礎をつくった伝説のミュージシャンで、誰よりも正直であり続けた、孤高のロックンローラーが選んだ生き方を紹介する。

(サムネイル/2020年6月29日発売の『ROCK'N ROLL BROADCASTING STATION ~FOREVER -ワーナーミュージック・ジャパン・イヤーズ-』(WANER MUSIC JAPAN))

ミュージシャンとしてはヒットにめぐまれなかった内田裕也

内田裕也が1976年に出した初の単行本『俺はロッキンローラー』には、「カッコイイ兄ちゃん」になりたいという、子どものころの素朴な憧れが語られている。

大阪の堺市で裕福な家庭に育った子ども時代。しかし、家の経済状態が次第に悪化。豪華な邸宅から小さな2階建ての住宅に移り、まもなく長屋住まいになった。引っ越しと転校が続いて貧しくなる中で、中学に入って反抗期を迎えた。

「そのころだね、音楽に目覚めたのは。河内長野市のドブ板のある家で、ロックンロールを聴いてから、なにかッていうと、ホウキもってきちゃア、やってたね、ギターのつもりで。(中略) なぜか、ロックンロール聴くと、落ち着いたんだよねエ」

ロックをやるためにと英語も一生懸命に覚えた。やがて少年から大人へ。ジャズ喫茶で唄ったり、司会をこなしたりしているうちに、全力投球のパフォーマンスが認められる。

華やかなロカビリーブームからエレキブームの時代。1963年3月に『ひとりぼっちのジョニー』でレコードデビュー。しかし、2年間で数枚のシングル盤を出すものの、いずれもヒットには結びつかなかった。

まったくといっていいほど売れなかったのだ。

ロックを生き方として、自分のものにしていく道を選んだ

そうした不遇の時期を経ることで、歌手としての限界を自覚したのかもしれない。

そのきっかけは、沢田研二がヴォーカルだったファニーズを発見したこと。のちのGS(グループ・サウンズ)の伝説的存在となる「ザ・タイガース」だ。

それまで世界の中心にいることしか考えていなかった人間が、自ら率先して新人バンドの裏方にまわって仕事を引き受ける。アーティストを発掘して育てるプロデューサーとして、見た目でなく、ロックを生き方として、自分のものにしていく道を内田裕也は選んだ。

古い芸能界のしきたりが強かった1970年代には、何とかその壁を乗り越えて、「ロック」という志を共有するアーティストが一つになろうと、獅子奮迅の努力をしてロックフェスに尽力した。

1974年8月、福島県郡山市で地元の有志が始めた「ワンステップフェスティバル」に協力し、キャロルやサディスティック・ミカ・バンドら日本中のロックバンド、海外からオノ・ヨーコとプラスティック・オノ・バンドを呼んだことで大いに注目された。

また、1975年8月には念願であった「第1回ワールドロック・フェスティバル」を主催。ジェフ・ベックやニューヨーク・ドールズを招聘し、当時としては日本最大級規模のイベントになった。

世界のロックアーティストと対等に話ができる数少ない日本人として、フェスの裏方という役割を務める一方で、俳優としてユニークな個性を発揮していったのもこの時期からのことだった。

内田裕也は、相手によって裏と表を使い分けるような大人社会の中で、器用に世渡りをするといったことができない人だった。

だからいつだって正攻法で、相手が誰であろうと自分で会って話し合い、言葉以上に「目の力」「全身の勢い」をぶつけることで、気合もろとも正面突破で前へ前へと進んでいった。

「みんなを世に出す助産師をやった」

『俺はロッキンローラー』の冒頭で、こんな本音が述べられていた。

「ロック・フェスティバルもやりにくい時代だぜ! 最近はちょっと人気が出るとすぐに、ワンマン・ショーをやりたがる。ワンマン・ショーなんて、年に一回で十分だ。そんなにイイカッコして、メリットを自分のものだけにしようっていうのかい? Rockerをめざす多くのグループに少しでもチャンスを与えてやることが、Rockの持っている共同体意識だと思う。テメエ一人でエラくなったんじゃないぜ」

また、当時の外国人は、日本にロックがあることなんて、ほとんど誰も関心を持っていなかった。東洋の小さな島国に1億人もの人間が住んでいて、よく分からない神秘の国と思っていた人が多かったのだ。そしてカメラも、ファッションも、車も、音楽も、すぐにコピーして、それを海外に輸出して商売をしていると思われていた。

そうした事実を受け入れたうえで、内田裕也は誰にも真似ができない実績を積み重ねながら、日本と世界をつなぐロックの仕掛け人となっていく。

「どっちみち、ちっちゃな島民が生きていくには、世界中の良いものをとって、テメエらに合わせなくちゃ…。でもそこから本物が生まれる時がある。本物を超える時がある! 俺はそれを信じている」

「俺はそれを信じている」と言い切った内田裕也の言葉には、いつだって嘘がなかったし、真剣そのものだった。

「俺の場合、邸宅からいきなり長屋住まいになったとき、ガキながらも、俺はなにかやってやろうと思ったんだと、いまになって思う。

そしてRockerになれたから、今生きていることを感じている! 自分自身を表現できる唯一のもの、それがロックだと俺は信じている」

2011年に行われたテリー伊藤との対談で、内田裕也は「僕にはヒット曲はないですけど、29歳から39歳までの10年間、タイガースも含めて、みんなを世に出す助産師をやった」と、裏方としての仕事を振り返っていた。

そして最高の発言を残した。

「男としていちばん輝いてる10年間は、人のために尽くしました」


文/佐藤剛 編集/TAP the POP

<参考文献>
・内田裕也 著『俺はロッキンローラー』(廣済堂文庫)
・黒沢進 監修『ルーツ・オブ・ジャパニーズ・ポップス1955-1970 : ロカビリーからグループサウンズまで』(シンコー・ミュージック)

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