ロックンロールの偉大なる創設者のひとり、リトル・リチャードのその知られざる史実と素顔を描く感動のヒューマンドキュメンタリー『リトル・リチャード:アイ・アム・エヴリシング』は3月1日(金)より、シネマート新宿ほか絶賛公開中。

上映劇場限定で販売中のブルース&ソウル・レコーズ特別冊子 『リトル・リチャード のすべて』には、近田春夫さんの特別インタビューが掲載されています!
そこで書ききれなかった近田春夫さんのインタビューを特別掲載!

[取材・文]賀来タクト(映画&音楽ライター)

――映画をご覧になっていかがでしたか。

すごく面白かったです。特に、自分にとって(リトル・リチャードが)ピアニストであるということが大きなキーワードでした。

ブギウギというか、ロックンロール・ピアノを初めて映像で見たのは小学校の低学年の頃、テレビでやっていた『ディズニーランド』という番組です。(1958~68年に日本テレビ系で)金曜の夜に放送していて、番組の中では「おとぎの国」「未来の国」「開拓の国」「冒険の国」という四つに分かれているものがあったんですけど、今でいうクロマキー撮影というのかな、黒バックに手だけが映って、ロックンロールを弾くシーンがあったんですよ。それを真剣に見ていたりしていましたね。

ロックンロール・ピアノということでいくと、『罠にかかったパパとママ』(1961年)というヘイリー・ミルズ主演のディズニー映画もありますね。

あの映画のテーマ曲《Let’s Get Together》はイントロがピアノから入るロックンロールなんです。

(リトル・リチャードは)「ロックンロールの創始者」っていうことですけど、どこからロックンロールが始まったかということに関しては諸説あります。ただ、ギターの人でロックンローラーって結構いるんだけど、8ビートのピアノを弾きながら歌うとなると、リトル・リチャードとジェリー・リー・ルイスくらいじゃないかと思うんです。ひとつのスタイル、サウンドでヒット曲を何曲もリリースしたということでは、リトル・リチャードはロックンロールの創始者といっていいかもしれません。

反論する方もいるかもしれませませんけど、僕としてはこの映画を通してロックンロールのフォーマットの基本が実はギターではなくピアノだったんだっていうことがわかったということが大きいです。今思えば、昔のロックンロール、ロカビリーにしても、結構、ピアノが入っているんですよ。

それがあるときからロック=ギター・ミュージックというふうに流れが変わっていった。でも、その前にピアノがあったんだっていうね。この映画を見なかったら、いつも聴いている音なのにその部分に気づくことはなかった。見終わったとき、そこにすごく興奮しました。

――新たな発見があった、と。

はい。

あと、この映画ではリトル・リチャードは「ブルースが嫌いだ」って言っていますね。僕にとってロックンロールというのはブルースのビートを速くしたものとは別のものという認識があって。コード進行はブルース・コードなんだけれど、彼は「ブルースが好きじゃない」と言う。そこは「我が意を得たり」といいますか。

今の時代、R&Bの一歩手前ということでブルースは面白くなってきているんですけど、僕らの若い頃はビートのないものということでずーっと来ていました。地味で暗いものだと考えていたんです。

今となっては80~90年代のミュージシャンにブルースの表現を取り入れている人がいっぱいいると気づいたんですけれどね。考えてみれば、ジョン・リー・フッカーの《ブーン・ブーン》もチャック・ベリーの《アラウンド・アンド・アラウンド》もブルースですよね? でも、昔はブルースとは思わなかった。リトル・リチャードがブルースを「好きじゃない」と言っているのは、僕が思っていたことと同じだったんじゃないかって。そんなことも映画を見終わって思いましたね。

――近田さんがリトル・リチャードという名前を意識したのはいつ頃でしょう。

僕が子どもの頃は、いろんな人がリトル・リチャードのカバーをやっていました。

鈴木やすし(ヤスシ)さんが歌った《ジェニ・ジェニ》は結構ヒットしましたね。でも、リトル・リチャードの名前はラジオでちょっと出されるくらい。専門的に語られることもほとんどありませんでした。だから、いつの間にか入ってきたという感じです。

平尾昌晃(当時は平尾昌章)さんが《ルシヤ(ルシア)》を歌っていましたけど、リトル・リチャードの(オリジナル)を聴いても「ルシール」のところは「ルシーヤ」って言っているように聞こえますね(笑)。平尾昌晃さんが歌われたあとは尾藤イサオさんも歌われていました。

平尾さんは《のっぽのサリー》も歌われていたんじゃなかったかな。

内田裕也と尾藤イサオが編んだアルバム)『ロック、サーフィン、ホット・ロッド』(1964年発表)には《ルシル(ルシヤ)》や《キープ・ア・ノッキン》なんかが入っているでしょ? この頃の尾藤イサオさんはアニマルズの《悲しき願い》もカバーしていて結構、ブレイクしたんです。その頃の話では、尾藤さんがよく出ていたフジテレビの番組『ザ・ヒットパレード』(1959~1970)がありますね。その『ザ・ヒットパレード』は番組名どおり、割とチャートに入っている曲をやっていました。いわゆるGS(グループ・サウンズ)が始まるちょっと前のことです。

いわゆるポール・アンカやニール・セダカなどのオールディーズ的なアメリカン・ポップスとロックンロールの歴然とした違いを感じたのは、当時、日曜の昼間にフジテレビで『ジャズ・トーナメント』という番組ですね。素人がジャズを歌って競い合うっていう、その後のフジテレビの番組『勝ち抜きエレキ合戦』とコンセプトが一緒なんだけど、審査員には沢田駿吾さんやJ・B・ハリス(ジェームズ・バーナード・ハリス)が出ていました。ハリスは英会話の先生みたいなことをやっている人で、ロバート・ハリスのお父さんだったと思うんだけど、その人なんかは素人の出演者に英語の発音に注文をつけていましたね。突っ張ったような感じの兄ちゃんなんかが出てきて(エルヴィス・プレスリーがカバーした)《ハウンド・ドッグ》を歌うと、ハリス先生が「曲の頭のところの発音が云々」と言っていてね。そういうのを見ながら、ロックを感じるきっかけになったところがあります。

ちなみに『ジャズ・トーナメント』の司会は鈴木やすしさんで、あるとき「レコードを出しました」と言って歌われたのが《ジェニ・ジェニ》でした。鈴木やすしさんは『ジャズ・トーナメント』のあと、『勝ち抜きエレキ合戦』の司会もやっていたと思います。

――当時のリトル・リチャードのカバーはどういう感じで聴かれていたのですか。

世代的にわかりづらいところがあると思います。たとえば《ジェニ・ジェニ》には、僕はそんなにロックを感じませんでした。歌謡曲みたいといいますか。鈴木やすしさんの持ち歌みたいな感じでしたし、陽気な感じもあって。あとからリトル・リチャードが歌った《ジェニ・ジェニ》を聴くと全然、違った感じで、(鈴木のカバーは)なんだかお茶の間っぽくて平和な感じでしたね。一方、プレスリーがカバーした《ハウンド・ドッグ》では、歌う人がプレスリーを意識するわけです。みんなかっこつけているから(笑)。

――そういう当時ののどかな《ジェニ・ジェニ》のカバーから、リトル・リチャードが歌う本家へとどう距離が近づいていったのでしょうか。

その距離はずーっと近づいていきませんでした。ただ、ミッチ・ライダーとデトロイト・ホイールズの《悪魔とモリー》(1964年発表)は、前半がショーティ・ロングの《Devil with the Blue Dress》で、後半がリトル・リチャードの《Good Golly Miss Molly》なんだけど、その曲がヒットしたとき、ラジオのDJが「実はこの曲は2曲がつながっていて」という話をしていましたね。木崎義二さんとかが話していたのかな。福田一郎さん、櫻井裕さん、湯川れい子さんといった音楽評論家が話すことから僕もリトル・リチャードの名前も知るようになったんだと思います。でも、僕に限らず、ほとんどの人はリトル・リチャードの歌う本家を聴くことはなくて、日本人がカバーしていたものを愛唱していましたね。日本語の訳詞もいい調子だったんです。漣健児さんがやっていました? それじゃいい調子になるのは決まっているわ(笑)。漣健児さんの功績は大きいです。

――リトル・リチャードの《愛しておくれ》はほり・まさゆきさんや長沢純さんもカバーされています。

覚えています。ただ、《愛しておくれ》はビートが3連なんですよね。だから、僕からするとリトル・リチャードの感じではない。

ほり・まさゆきさんは和製プレスリー的な感じでやられていました。あと、ほり・まさゆきさんと尾藤イサオさん、内田裕也さんの3人はよく一緒に組んで、ウエスタンカーニバルに出ていましたね。時代としては、その頃の日本はアメリカン・ポップスみたいなものからエレキブームに移り変わる頃のことです。プレスリーでいうと、ちょうど『ブルー・ハワイ』の頃かな。

《ハウンド・ドッグ》に関していうと、自分は小さかったのでリアルタイムでは聴いていません。ですので、僕らにとってプレスリーの1曲目というのは《G.I.ブルース》でした。ちょうどテレビも普及していて、いろんな人が歌っていましたね。

――アメリカでもリトル・リチャードの歌が白人歌手によってカバーされて、自分で歌うよりカバーの方が売れていきます。

英語圏でのカバーと日本でのそれとは意味合いがちょっと違ってくるところがあります。文化的に当時のアメリカは人種差別のまっただ中にありました。でも、日本では(原曲を)黒人が歌っているのか白人が歌っているのかはどちらでもよかったというか、楽曲として(いいかどうか)が第一でしたから。それこそ平尾昌晃さんなんかも《ルシヤ》(1958年発表)をまず歌って、その後、オリジナルで大ヒット曲となるのは《ミヨチャン》(1960年発表)です。でも、みんなは、ロカビリーから《ミヨチャン》まで、全部、平尾さんのナンバーとして聴いていたんじゃないかな。なんで《ミヨチャン》だったのか、よくわからないんだけど(笑)。

リトル・リチャードの文脈でいくとロックンロールとなるんでしょうけど、日本ではそれはロカビリーという文脈で語られていたと思います。ロカビリーにはポール・アンカもニール・セダカも含まれていました。要するに、日劇ウエスタンカーニバルに出て歌う人は全部、ロカビリーだったんです。

――1960年代というと、映画界ではムード歌謡の映画が作られている時代でもありました。

当時、僕はまだ子どもでした。時代としてはまだイギリス音楽が入ってくる前ですね。イタリアの曲は一部、入っていたかな。僕自身はもともと洋楽=アメリカン・ポップスが好きでしたけど、テレビがお茶の間に浸透してきて、そこからも(洋楽が)入ってくるようになりました。

当時のテレビ番組を作っている人たちというのは基本的に割と恵まれた都会の家庭に育っていて、洒落た学校を卒業してテレビ局に入ってプロデューサーやらディレクターなんかになった人が多かったわけで、自分の作っている番組の中で洋楽を要所に取り入れていました。受け手であった僕らはそれがどういうものかは知らないけれど、毎週、流れてくる中、体で覚えていったんですね。

日本テレビの『シャボン玉ホリデー』(1961~1977年)という番組でもザ・ピーナッツが番組の最後で歌うのはホーギー・カーマイケルの《スターダスト》でした。英語で毎週、歌うんです。想像する以上に、僕らはテレビから洋楽のサウンドを受け取っていたと思うんですよ。見ている人はザ・ピーナッツが歌っている曲が誰の何という曲かは知らない。だけど、毎週、聴いている。

当時はラジオでも洋楽のトップテン番組が各局にありました。好きな人は全部、聴いていたと思います。FENもありました。だから、歌謡曲一辺倒ではなかったと思います。僕は当時、小学生で、マニアになる前です。そういう中で普通に(洋楽が)耳に入ってきたところは大きかったと思いますよ。そうやって養われていったんです。耳がそういう曲に慣れ親しんでくると、日本の歌謡曲とアメリカの音楽……アメリカ以外の音楽はあまり入ってこなかったんですけど……の違いというか、アメリカ音楽に日本の音楽にはない和声やビートの面白さ、ミックスダウンのうまさによる音響的な刺激、そういうものを感じさせられましたよね。どちらがいいということではなく、違うものとして、僕らなどは歌謡曲よりかっこいいなって思ったりしていました。理屈ではなくて。そういう中でリトル・リチャードというアーティスト名は一般にも無視はされていなかったんじゃないかな。

裕也さんと尾藤イサオさんのアルバムにしても、当時は誰が歌っているかというより、まずは曲だったと思います。『ロック、サーフィン、ホット・ロッド』はいいアルバムですね。本当に、いいアルバム。《スイムで行こう》はプレスリーのアルバム『ブルー・ハワイ』に入っていた曲《Do the Clam》がオリジナルですね。

――近田さんにとって、リトル・リチャードとそのカバーというのは、思春期、ないしは青春期の思い出の産物となるのでしょうか。

いえ、自分がこの世界に入る前のことというよりは、入るか入らないかの頃、GSが終わってロックに移る頃に裕也さんが「1815ロックンロールバンド」を作られました。その前にロカビリーの曲をパッケージにしてやっていたことがあって、それを見ていたことが自分の中でいちばん大きかったんじゃないかと思います。ナマで見ているということもあって。だから、リトル・リチャードのカバーとなると、個人的には裕也さんの印象が今でも大きいんです。

――プロになられた後、かつての日本語詞がついたカバー曲のルーツを探ろうと思われたことはありましたか。

ないです。僕にはそういう趣味がないんですよ(笑)。そのアーティストがどういう歴史を持っているのかとか興味がない。それより、一曲一曲、純粋に「曲としてかっこいいか」だけで。その意味では、音楽の聴き方が子どもの頃から割とDJ的なんです。背景がないんです。たとえば、リトル・リチャードでいうと、彼がどういう人かというより、バックのピアノがどういうふうに低音が鳴っているんだろうっていうことが気になる。音響的な意味での「この音はどう作られているんだろう」ということを考えることが好きだったんです。

――だからこそ一層、今回の映画は新鮮に映られたということになるわけですね。

すごく新鮮。リトル・リチャードは最初にシスター・ロゼッタ・サープに影響を受けたというじゃないですか。彼女のことは全く知らなかったから、あのギターの弾き方を見たら「あ、チャック・ベリーより前にこういう弾き方をする人がいたんだ!」ってわかったし、この年になって初めて彼女のサウンドを知ったというのは大きかったです。あれ、かっこいいですよねえ。でも、名前も知らなかったもん(笑)。

ロックンロールというものを考えたとき、それはリトル・リチャードからローリング・ストーンズまでなんだなと思いました。映画の中でミック・ジャガーが「昔、6週間、ツアーを一緒に回ってリトル・リチャードに勉強させてもらった」とか言うじゃないですか。すごく楽しそうに。いったいどういうツアーだったんでしょうね。

ポール・マッカートニーも影響を受けていますけど、(彼は)ロックじゃないでしょう。リトル・リチャードの声だけ真似しているだけで普通に「ミュージシャン」です。

ロックンロールにはフォーマットというか、ある枠があると思うんです。やっぱり、リトル・リチャードもローリング・ストーンズもその枠の中でやっている。僕はその枠の中だけではできない。ロックンロールを音楽の一部としてやっている。ロックンロールは好きだし、スピリットとしてはロックンローラーだと思うんですけれど、作家、演者としてはロックンローラーではないかもしれないと考えるようになってきたんです。ロックンローラーの名乗るのはおこがましいんじゃないかって。ですので、何年か前にやめました。自分はロックンローラーではなくミュージシャンなんだということで。

たとえば、エルヴィス・プレスリーはロックンロールを歌うけれど、いわばシンガーですよね。リトル・リチャードも「プレスリーは曲を作っていない」と言っていましたけど、自分で曲を作って演奏して歌も歌う。それでこそロックンロールだということですね。この映画を見ると、ただ歌を歌うだけではロックンローラーとはいえないんじゃないか。あらためてそう思いました。自分で楽器を弾きながら歌うかっこよさ、それはいつの時代にも憧れるものとしてあります。

もちろん、ミック・ジャガーのようなヴォーカリストもかっこいいんだけど、それもローリング・ストーンズというバンドの中のヴォーカルなんですよね。バンドか、ひとりでサウンドを全部やるか。後ろ(バックバンド)は関係なく歌だけやるというのはロックではないのではないか、っていうのは自分の中にあります。あくまで自分の考えですけど、そこは僕なりにこだわってきたことでもあります。

――リトル・リチャードは歌唱だけでなく、ピアノのパフォーマンスでも道を拓きました。

そこがロックンローラーなんだろうなって僕は思います。だからこそ、オリジネーターと言えたんだと思います。普通に歌も上手だったと思うし、本当に声がよく出る人だったと思います。ポール・マッカートニーはまさにあの歌い方を意識していますね。

――この映画はロックンロールに詳しい人でも、そうでない人間にとっても新鮮な「読後感」を与えている意味でユニークです。それほどリトル・リチャードという人間の存在はこれまでミステリーだったといえますし、ほとんどの人は彼の素顔を知りませんでした。

知らなかったと思いますよ。いろんな音楽ドキュメンタリーを見てきましたけど、だいたい見る前に(題材となっているアーティストのことを)知っていることが多いんです。でも、この映画はそうじゃない。(リトル・リチャードは)こういう人間だったのかと。当時のアメリカの時代背景で、こういう人が生まれてきたのかと。シリアスな時代なのに、ヒット曲が全然、シリアスじゃないでしょう。だから逆にそれが浮かび上がってくる。

たとえば、映画の『アラバマ物語』(1962年公開)だったら、当時のアメリカ南部での黒人のシリアスな状況が描かれるわけじゃないですか。そういうものだと、正座して見なければいけないんだけど、この映画ではリトル・リチャードがずっと「浮いた態度」でしょう。彼のある種、怪しいところも含めて、すごくリアルでよかったです。

――『アラバマ物語』の原作小説はアメリカの教科書で取り上げられているほど黒人差別をめぐる問題提起の人情劇ですけど、リトル・リチャード自身はそういう差別に対して臆することなく、力強いシャウトし続け、時代と闘っていきました。

そこがロックンロールという気がするんですよね。やっぱり、ロックンロールは反逆の音楽だと思うんです。「Rebellion」はロックンロールの本質ですよ。ただ、反逆の音楽なんだけど、リトル・リチャードの場合、その反逆の方法にユーモアがあるというのかな。

――裸になったり女装したり、いろいろやっています。

だから、いちいちやることがふざけているじゃないですか(笑)。今までずっと名前だけは覚えていたけど、どういう人間だったのかは誰も考えていなかったんじゃないですかね。きっとへんてこりんな人だったんだろう、くらいで。この映画で、その「へんてこりん」の意味を知ることができて嬉しかったです。この人の音楽がずっと好きだった自分を信用できた、といいますか。その発想はリトル・リチャードに近いと思いますよ。「俺は間違っていなかったんだ!」っていうね。そういう考え方は僕も一緒です(笑)。

映画情報、特別冊子『リトル・リチャードのすべて』の詳細はコチラから
little-richard.com/

『リトル・リチャード:アイ・アム・エヴリシング』

製作・監督:リサ・コルテス(『プレシャス』製作総指揮)
出演:リトル・リチャード、ミック・ジャガー、トム・ジョーンズ、ナイル・ロジャーズ、ノーナ・ヘンドリックス、ビリー・ポーター、ジョン・ウォーターズ
2023年/アメリカ/101分/カラー/ビスタ/5.1ch/DCP/原題:LITTLE RICHARD:I AM EVERYTHING
字幕:堀上香/字幕監修:ピーター・バラカン 提供・配給:キングレコード little-richard.com
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2024年3月1日(金)より、シネマート新宿ほか全国ロードショー

【上映劇場】 ※3/27現在

シネマート新宿、ヒューマントラストシネマ渋谷、角川シネマ有楽町、立川シネマシティ、札幌シネマフロンティア、シネマ・トーラス、函館シネマアイリス、MOVIX仙台、小山シネマロブレ、宇都宮ヒカリ座、長野相生座・ロキシー、シネマテークたかさき、シネプレックスつくば、T・ジョイ蘇我、キネマ旬報シアター、ムービル、あつぎのえいがかんkiki、静岡シネ・ギャラリー、シネマイーラ、シネ・ウインド、高田世界館、ミッドランドスクエア シネマ、アップリンク京都、シネマート心斎橋、T・ジョイ梅田、シネ・リーブル神戸、シネマ・クレール、八丁座、シネマルナティック、とさぴくシネマ、KBCシネマ、シネプレックス小倉、シアター・シエマ、T・ジョイパークプレイス大分、Denkikan、宮崎キネマ館、鹿児島ミッテ10、桜坂劇場

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