最強のボクサー、井上尚弥の〈言葉〉はなぜ面白くないのか? 話題の1冊『怪物に出会った日』が井上に敗れた者たちだけを取材した理由
最強のボクサー、井上尚弥の〈言葉〉はなぜ面白くないのか? 話題の1冊『怪物に出会った日』が井上に敗れた者たちだけを取材した理由

ノンフィクション本の新刊をフックに、書評のような顔をして、そうでもないコラムを藤野眞功が綴る〈ノンフィクション新刊〉よろず帳。今回取り上げるのは森合正範『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』(講談社)。

日本ボクシング界の最高傑作と呼ばれ、12月26日にスーパーバンタム級4団体統一戦を控える井上の戦績は、25戦全勝。彼の前に立った者は、すべて敗れ去っている。その対戦相手たちをインタビューして回った同書は、はたして井上尚弥の強さの謎に迫れたのか――。

怪物に出会った日

井上尚弥は、日本ボクシング史上もっとも完成された王者である。この評価に、正面から異を唱える者は少ないだろう。では、もっとも完成されたプロボクサーの条件とはなにか。内山高志(スーパーフェザー級/元世界王者)は言う。



〈すごいのは普通にワンツーとかで倒していること(…)普通ならワンは弱めです。そのほうがより速くツーであるストレートが打てるからです。ところが尚弥はワンが強い。ズドンとくる。次の瞬間に強烈な右ストレートが飛んでくる(…)世界のトップボクサーには左フックだけめちゃめちゃ強いとか、偏っている人も少なからずいるんですけど、尚弥は本当にオールラウンダーです。左フックでも倒すし、ボディブローでも倒す。
さらに距離をキープしながらアウトボクシングできるし、近づいてインファイトもできる〉【1】

山中慎介(バンタム級/元世界王者)の見解も内山と同じだ。〈すべてのパンチが平均よりだいぶ上を行っていますよね。ほとんどすべての種類のパンチで相手を倒してます〉【1】。

では井上は、並外れた攻撃力を持つがゆえに完成されているのか、といえば、それも正確ではない。

かつてアンタッチャブルと綽名された川島敦志(スーパーフライ級/元世界王者)によれば、井上のディフェンスには穴がなく〈ノーガードで相手のパンチをよけるとか、全然できると思います。できるけど必要がないからやらない〉【1】。



要するに、井上尚弥は何でもできるということだ。

書き手としての演出

7月25日に行われた、スティーブン・フルトン(WBC・WBOスーパーバンタム級王者)との一戦は、心の底から面白かった。間合いを巡るふたりの駆け引きは、ザブ・ジュダー対メイウェザーの7ラウンドまでの興奮に匹敵し、じわじわと追い込んで倒すタイミングを計るさまは、デ・ラ・ホーヤを完封したバーナード・ホプキンズの威圧を思い起こさせた。

しかし、最高のボクサーたちを引き合いに出して書いても、井上の強さを表現し得たことにはならない。東京新聞で運動部の記者を務める傍ら、『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』(講談社)を上梓した森合正範も悩んでいたようだ。

〈「スピードは圧倒的だし、パワーも突出している。たぶん、二階級上くらいのパンチ力じゃないですか。

相手のパンチをもらわないディフェンス力もあるし(…)パヤノにワンツー、七十秒で勝つなんて、本当にあり得ないことなんです」

すごく薄っぺらい。自分で説明していて、そう思った。井上という稀有なボクサーを伝えたい。その思いとは裏腹に私自身、何が凄いのか。本当は分かっていない。そのことにはっきりと気付いた〉【2】

すると、森合にモヤモヤを〈初めて〉【2】打ち明けられた『現代ビジネス』編集長の阪上大葉が言った。


〈だったら、対戦した選手を取材していったらどうですか。怪物と闘った相手に話を聞けば、その凄さが分かるんじゃないでしょうか〉【2】

森合はその言葉をきっかけに、悩んでいても仕方がないと吹っ切れた気持ちになり、〈よし、じゃあ、取材に行ってみますわ〉【2】と応えたそうだが、それだけでもないだろう。

「怪物~」に記されたこのやりとりには、森合の見せたい「物語」のために消されてしまった言葉もあると思う。たとえば、阪上編集長の言葉には、続きがあったはずだ――インタビューが取れたら『現代ビジネス』で載せます。うまくシリーズでやれたら、単行本にもなるかもしれません、と。

30年前の一冊

『怪物に出会った日』の目次には、11人の男たちの名が記されている。

佐野友樹: 井上のプロ3戦目の相手。

TKO負け。
田口良一: 日本ライトフライ級王者として、井上と対戦。判定負け。
アドリアン・エルナンデス: WBC世界ライトフライ級王者として、井上と対戦。TKO負け。
オマール・ナルバエス: WBO世界スーパーフライ級王者として、井上と対戦。KO負け。
黒田雅之: 井上の公開プロテストの相手、スパーリング・パートナー。試合はおこなっていない。
ワルリト・パレナス: 井上(WBO世界スーパーフライ級王者)の防衛戦の相手。TKO負け。
ダビド・カルモナ: 同王座・防衛戦の相手。判定負け。
河野公平: 同王座・防衛戦の相手。TKO負け。
ジェイソン・モロニー: 井上(WBA・IBF世界バンタム級王者)の防衛戦の相手。KO負け。


ここまで9人。

目次ではもうひとり、ノニト・ドネアの名前が書かれているが、この章の主たる語り部は、ドネア本人ではなく、〈日本での代理人のような存在〉【2】である植田眞壽なので除外した。また11章のナルバエス・ジュニアは、第4章で扱われたオマール・ナルバエスの息子だ。

森合が参考にしたかどうかは知らないが、今から約30年前に、「怪物~」と同じコンセプトの作品があった。カナダ人のスポーツライター、スティーブン・ブラントによる『対角線上のモハメド・アリ』だ。


アリと闘った15人のボクサー、そしてアントニオ猪木の話をまとめた1冊で、原題は『FACING ALI』(アリに出会った男たち)という。

まるでモハメド・アリのように

さて、ほとんど同じように編まれた『怪物に出会った日』(森合)と『対角線上のモハメド・アリ』(ブラント)だが、読後感は大いに異なっている。それは、敗れた者が過ごした人生の目方に左右されているのかもしれない。

アリが引退したのは、1981年。『対角線上の~』が生まれるまでには約20年の月日が流れている。アリが、カシアス・クレイとしてプロボクサーになったのは1960年なので、そこから考えれば40年以上だ。

同書で、先陣を切るタニー・ハンセーカー(プロ初戦の相手)は、いきなり叫ぶ。〈象みたいなあんたの足をテーブルからどけな!〉【3】。ブラントの取材時、72歳になっていたタニーは、ずいぶん前から認知症が進行していた。

アリに初めて黒星をつけたジョー・フレージャーは、「聖人」の椅子をものにしたカシアス・クレイがパーキンソン病に苦しめられるのは「神の思し召し」だと決めつけた。その態度を導いたのは、ほかならぬアリ自身の仕打ちである。

〈アリは、フレージャーのことを醜いと言った(…)さらに、アリも同じように軍隊の適正テストで落第したにもかかわらず、フレージャーのことを愚かで無知だとあざけった。ついには愚かさと無知を重ね合わせ“ゴリラ”というニックネームをフレージャーに与えたのだった。想像できる限り、最も典型的な人種差別の響きを持ったニックネームだ〉【3】

さて、フレージャーの言葉を続けよう。

〈神様があいつのへらず口に疲れてしまったんだ。『我こそは、唯一無二の』なんて言うから(…)リングの中でアリは、俺に向かって自分は神だと言った。俺は、あいつにこう言った。『今夜のお前さんは、間違った場所に来ちまったんだ』って。するとあいつはまた『ジョー・フレージャーよ。俺は神だ』って、言ったんだ。だから、俺は言った。『分かったよ、神様。でも今夜のあんたは、ケツ鞭打ちの刑にされるんだぜ』ってね〉【3】

この日――1971年3月8日、フレージャーはダウンを奪い、アリに勝利した。つまり、これが「物語」というやつだ【4】。

モハメド・アリは、自分自身で「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と喧伝したフットワークとハンドスピードでへビー級のボクシングに新たな風を吹き込んだが、増田茂は〈ボクサー型としてのアリのスタイルは、必ずしも完成度の高いものではなかった〉【5】と評している。

〈フットワークは縦にハネすぎで腰が据わらず、ジャブや右クロスは最終的な照準の絞り込みが甘かった。得意のサークリングは左回りに偏り、左斜め後方へのスウェイバックばかりだった〉【5】

バンデージに難癖をつけたトレーナー

おまけに、アリは汚いボクシングをした。強烈なダウンをとられたヘンリー・クーパー戦では、回復時間を稼ぐために自分のグローブを破って1分間のインターバルを2分以上に引き伸ばしたり【6】、親指を開いてジャブを打って、意図的に相手の目に指を突っ込んだり――その醜態は、スティーブン・フルトンの姿にも重なる。

フルトンのトレーナーであるワヒード・ラヒームは公式会見の席で井上のバンデージの巻き方に難癖をつけ、フルトン自身は踏み込みを邪魔するため、試合中に何度も繰り返し、井上の前足を踏みつけた。しかし、井上は意に介さず、巧みに距離を詰め、腹に槍のような突きを見舞い、8ラウンドで殴り倒した。
 

試合の後、負けた者らは「物語作り」に精を出す。バンデージに難癖をつけたトレーナーは〈日本ではルールが違うと分かったのは抗議をした後だ〉【7】といけしゃあしゃあと語り、〈俺は帰る前に楽屋裏で愛を見せたんだ〉【8】とフルトン。

対して、井上は〈1回踏まれたときに、たまたまかと思ったけど、5回、10回ときて、故意にやっていると感じた(…)フルトンは足を踏むのを意識していたと思うけど、4、5回ぐらいからは踏みにいく余裕がなくなったので、そこからは踏まれなくなった〉【9】と語るだけだ。

井上尚弥は〈他人〉に興味がなく、試合相手を倒すことを〈作業〉と呼ぶ【10】。子供の頃から夢を持たず、神々や宇宙人の存在も信じていないので縁起も担がない【11】。

〈ボクシングの書籍に付き物のハングリーな物語は僕には存在しない(…)僕のポリシーは、「リング上のパフォーマンスがすべて」。そこに付随する物語の必要性はプロとして感じない。人生の苦労などない方がいいに決まっている〉【10】

森合の言葉、井上の言葉

森合は『怪物に出会った日』のエピローグで、同書に井上の言葉を差し込まなかった理由について釈明している。

〈確か、私が「怪物に敗れた男たち」と題し、佐野友樹と河野公平についての原稿を「現代ビジネス」に記した後だったと思う。井上から「読みましたよ」と伝えられた。「どうでした?」と聞くと、少し考え、困ったような表情に変わった。「うーん、なんて言えばいいんだろう。どうしよう……」そう言って、口をつぐんだ。井上は試合の勝者であり、何かを語ることは対戦相手に礼を欠くと考えているようだった〉【2】

はたして、そうだろうか。

これらの試合について、井上は過去に語っている。ライトフライ級の10回戦でTKO勝利した佐野友樹について、「森合が書いた言葉」と、「森合が書かなかった井上自身の言葉」を並べると、なぜ森合が井上の言葉を排したのかが見えてくる。

まずは、森合による描写。
〈試合はすぐに動き出す。開始一分二十秒。佐野が上体をわずかに下げた瞬間だった。ダイナミックで天高く突き上げる左アッパーが飛んできた。この試合で井上が初めて放ったアッパー。網膜裂孔の手術をした右目に直撃し、右まぶたをカットした。この一発で佐野に異変が起きた。「試合であのアッパーが一番効いた。パンチをもらった右目だけでなく、あまりの衝撃で左目まで見えなくなったんです。『パン!』と打たれて両目とも見えなくなったんです」パンチを浴びた反対の目まで見えなくなる。そんなことが起こりうるのか〉【2】

井上の言葉。
〈少し大きめなアッパーを放つと、佐野さんの右目上がカットし、出血をし始めた。ボクサー以外にとって残酷な感覚に思えるかもしれないが、ボクサーにとって、相手の目じりをパンチでカットできたのは、この上ない追い風だ(…)僕は右ストレートを警戒させておきながら、左のボディアッパーを打つと見せかけておいて、その左を顔面へのフックに切り替えるというコンビネーションで、最初のダウンを奪った〉【12】

井上は、試合の展開について饒舌に語ることができる。だが、試合相手の物語にはこれといって関心がない。ゆえに、すべての売文業者は商品としてのストーリーを組み立てることができない。物語とはたいていの場合「誰かとの物語」であるから。

ほとんど同じように作られた「対角線上の~」は、敗者を通じてアリの一面を浮き彫りにするが、「怪物~」はなかなか井上を描き出せない。その根本的な違いは、ブラントと森合の書き手としての実力の差ではなく、井上の存在そのものに由来している。

勝った連中にも最後まで奪えないもの

解釈は難しいが、目の前に材料はある。折々に発せられた言葉だ。それらの言葉から自己認識を仮構すると、井上尚弥はメリトクラシーを疑わない素朴な若者【13】という位置づけになるだろう。そこには父であり、トレーナーでもある井上真吾の強い影響が窺える。

真吾は、井上尚弥の「天才性」を否定し、〈誰よりも努力しているのをずっと近くで見てきた〉【1】と語る。その弁に則るなら、井上に敗れた者は「努力が足りなかった者」ということになってしまう。世界におけるひとりひとりの位置づけ、その勝敗や格差、優劣を分ける何がしかを、強引に〈努力〉という型枠に押し込めるなら、それが可能だと疑わないのであれば、勝った者はすべてを手にする資格を得る。財産だけでなく、あらゆる「正しさ」までをだ。

そういえば、フィリピンの闘鶏ではどちらかが死ぬまで試合が終わらない。専門の職人によって脚にナイフを括りつけられた2羽は、まるでボクサーのようにふたつのコーナーから現れる。ボクシングなら赤青の、そのコーナーはメロン、ワラと呼ばれる。メロンは、持つ。ワラは素寒貧。ある、なし。

僕らの九分九厘は負け犬だ。生まれた場所で負け、家庭環境で負け、身長で負け、テスト勉強で負け、駆けっこで負け、喧嘩でも負け、ツラで負け、金で負け、センスで負けた上に根性でも負け、稼ぎで負け、出世で負け、酒で負け、優しさで負け、はたまたいやらしさでも負け、正義感でもずる賢さでも、年上にも年下にも、男にも女にも、自分自身にも負ける。

そんな僕らには、何かひとつでも残されているだろうか【14】。勝った連中にも最後まで奪えないもの、始めから彼らの興味を惹かないもの。負け犬の懐にもせめて「物語」だけは残るかもしれない。

文/藤野眞功

【1】『別冊カドカワ 総力特集井上尚弥』(カドカワムックNo798/角川書店)より引用。

【2】森合正範『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』(講談社)より引用。

【3】スティーブン・ブラント『対角線上のモハメド・アリ』(三室毅彦・訳/MCプレス)より引用。

【4】ブラントの取材からさらに時を経た2011年、フレージャーがアリの謝罪を初めて受け入れ、許し、ほどなく死去したという一部報道もあるが、筆者が調べた範囲ではフレージャー自身の「発言」だと十全に確認することはできなかった。

【5】ボクシング・マガジン7月号増刊『モハメド・アリ 永遠のチャンピオン』(ベースボール・マガジン社)より引用。

【6】グローブを破ったのはアリ本人ではなく、トレーナーのアンジェロ・ダンディである。アリがこの出来事を恥じた記録は残されていない。

【7】『Number WEB』より引用。インタビュアーの杉浦大介は、ワヒード・ラヒームが繰り出す「物語」を丸呑みせず、食い下がって質問を重ねている。

【8】『cocoKARA next』より引用。

【9】『サンスポ』より引用。

【10】
井上尚弥『勝ちスイッチ』(秀和システム)より引用。原文は〈他人に興味がない〉、〈最近は、勝利をデザインすることを「作業」という言葉で表現することが多い。一撃必殺のKOパンチを当てる前に、相手をいかに弱らせるか、の作業である〉。

【11】『別冊カドカワ 総力特集井上尚弥』(カドカワムックNo798/角川書店)を参照。原文は〈子供の頃の夢は? 特になりたいものがありませんでした(…)幽霊を信じる? 信じない(…)宇宙人を信じる? 信じない(…)占いを信じる? 信じない(…)なにかジンクスはありますか? あえて作らない〉。同書では「神を信じるかどうか」という問いはなされていないが、幽霊(的なる存在)を信じない者が神を信じるとはなかなか考えられないので、本稿のように記した。

【12】井上尚弥『真っすぐに生きる』(扶桑社)より引用。

【13】一般に、メリトクラシーは「成果主義」、「能力主義」と訳されることが多い。テレビや新聞といったマスメディアはしばしば「格差社会の是正」を主張し、資本(金銭・財産)の再配分を唱えるが、その視線をプロスポーツに向けることはしない。
2019年の時点で井上のファイトマネーは1試合5000万円(WBSS)を超え、2020年には約1億円、フルトン戦では3億円以上とされている。その途方もない報酬を、井上は〈僕の実力に相応の金額〉、つまり当然だと考えているようだ。

〈1試合、1試合、結果を出すにつれファイトマネーが上がる。分かりやすい成果主義(…)ここまで、父も僕自身もファイトマネーに対しての不満は一切ない。「プロボクサー・井上尚弥」の価値を十分に評価していただき、今現在の僕の実力に相応の金額をもらっていると思っている〉(『勝ちスイッチ』より引用)

この素朴な――ともすれば幼い――感覚を敷衍すると、たとえばエッセンシャルワーカーや非正規雇用者たちが、最低限度の文化的な暮らしを維持できないほどの「少ない報酬」で働かざるを得ない状況も、たんに彼ら自身の〈実力に相応の金額〉が支払われているに過ぎないという結論が導き出されかねない。
しかし、こうした問題は井上に発するというより、井上や大坂なおみ、大谷翔平といった超格差社会アメリカの経済構造の恩恵を受けるプロスポーツの勝者を、どういうわけか“市民が目指すべきロールモデル”として扱い、無批判に褒め称えるマスメディアのやり口に根差す問題だろう。
誰であれ、特定の者に金銭が集中する経済構造(プロスポーツも当然含まれる)それ自体を前提から疑い、社会や共同体における極端な富の偏りを防ぐための議論を仕掛けるのが、マスメディアが本来果たすべき役割ではないのか。
その一方、総体としての社会、共同体ではなく狭義のスポーツの中では、井上尚弥は非の打ち所がないロールモデルだ。どの試合であってもささいな反則の兆しさえなく、つねに正々堂々と闘うその姿は、競技者の鑑として仰ぎ見るほかない。

【14】補註13に関連し、井上が狭義の「プロボクシングにおける経済構造」については十二分に理解していることを付言しておきたい。

〈今や世界中から井上との対戦を熱望するボクサーたちが列をなし、選ばれし者しか対峙できない。そんな状況を踏まえて、私はこう尋ねた。
「以前と違って、みんなが井上尚弥と闘いたがっている。対戦することで箔が付くというのか。それを感じますか?」
すると井上は、リングの四方を囲むロープに刻まれた「docomo」のロゴを見て、私に目配せをした。
「これですよ、ドコモのお蔭ですよ。もちろん、自分がPFPで上位にランクされているのもあるでしょう。それにプラスして、日本でやれば何倍ものファイトマネーがもらえるというのも相手にとってデカいと思いますよ。勝っても負けても、闘う価値があるというのかな」(…)フルトンは交渉段階で「富と名誉を得られるなら、こちらから日本に行く」と語り、これまでと一桁違う報酬を手にした〉(『怪物に出会った日』より引用)

このように経済構造の局所に絞れば、井上は敗者にも莫大な富を分け与えているが、そのことが総体としての経済構造の公平性や正当性を保障するわけではない。