日本の女性アイドルグループとして27年という最長の活動年数を誇る「モーニング娘。
つんくさんの歌の世界観を解釈できるようになった
ソロディナーショー「中澤裕子 Birthday ☆Casual Dinner Show 2024 ~5 +1」の会場で「こっから5年連続でディナーショーを続けるからね」と宣言した中澤さん。これは、なんといっても一昨年にハロプロ25周年のコンサートを行なった影響が大きいのだという。
――今回のディナーショーはいつ頃にやろうと決めたのですか?
中澤裕子(以下、同) モーニング娘。の25周年コンサートを終えてからやるつもりでした。今年3月頃に歌う曲目は決めて、音源を送ってもらって聞き直してイメージを膨らませていくんですけど…あまりライブに意識を持っていきすぎると私生活に影響が出ちゃうので、なるべく子どもが学校に行ってる間や、夫が出張で不在の時に一人の時間を見つけてイメトレしてましたね。
――中澤さんとしては、家庭に仕事は持ち込みたくないんですね。
はい。私は家族ファーストなので。
――娘さんにコンサート映像なども見せたことはあるんですか?
私は自分の映像を見るのは好きじゃなかったので、自ら見せなかったんです。でもお家で旦那さんとお酒を飲んでる時に、2011年にドリームモーニング娘。を結成して初めて武道館でライブしたときのDVDを娘が「これなに~!」って出してきたんです。酔っ払って「見る?」って流れになって。
――娘さんはどんな反応でしたか?
「すごーい」って喜んでくれました。それに歌番組などで過去映像が流れると食い入るように見てくれるので、それなら生でお母さんが歌って踊る姿を見てほしいと思って、6月のディナーショーのときも家族を呼んだら昼と夜の2部とも見てくれてました。
――ライブではモーニング娘。の代表曲『恋愛レボリューション21』なども歌っていましたが、やはりモーニング娘。時代と今では歌うときの気持ちは違いますか?
まったく違います。
例えば『恋愛レボリューション21』なら、ただ男女の恋愛ソングではなく、仕事など日常生活を送る中で、それが美しい地球上でひとつの歴史として刻まれてる…って、つんくさんの歌の世界観の広さをちゃんと解釈できるようになった気がしています。
――今でもつんくさんとはご交流はあるのでしょうか。
今は直接はないですが、つんくさんが何か出版されたときなどは私の分もご用意していただいて送ってくださいます。つんくさんとは年齢が離れていないとはいえシャ乱Qとして活躍していた姿をリアルに見ていたし、何よりプロデューサーさんだし、以前から「つんくさん~」などと自ら行って声をかけることなんてできませんでした。
後輩メンバーが「つんくさんはお父さんみたい」なんて言ってましたけど、私には絶対に言えない。いまだに雲の上の人なんです。
家族ファーストでいられるよう仕事を調整
――初代リーダーとしてはメンバーの加入や卒業をどう見てきたのでしょうか。
当時5人だったメンバーからオーディションで3人増やすことを『ASAYAN』の収録中に言われて。おニャン子クラブさんの増え方とはまた違うし、私たち5人じゃダメなの?って最初は抵抗してました。
そこからあれよと保田圭と矢口真里と市井紗耶香が決まって8人になって。決まったからにはがんばろうってなったものの、その後は嫌とかなんだとか考える暇もなく毎日が過ぎていきました。
――当時リーダーとしてはどういう心持ちでいましたか。
私はモーニング娘。になるために生まれてきたと思っていたし、代表してコメントを出すときは言葉のチョイスは間違ってないかなどと常に責任を感じてました。みんなをまとめるのに必死でしたね。
右向いてと言ってるのに右を向かない子に、どう伝えたらいいかは常に考えてきたことでした。でも最年長だししっかりしないといけないとか、気を遣うことは、現役時代よりも今のほうがありますね。
――今のほうが気を遣うんですか。
はい。モーニング娘。の名前に傷つけたくないから、私は今の現役メンバーに迷惑をかけたり足手まといにはなりたくないし、OGだからこそ前に出過ぎないようにとか。初代リーダーから歴代リーダーがモーニング娘。の歴史を繋ぎ25周年を迎えられたことが幸せです。
――10年前に福岡に移住されたのは、モーニング娘。OGとしての活動に少し区切りがついたからでしょうか。
子どもを授かる前までは一生東京で過ごすと思ってたのに、子どもができてどういう生活環境がいいかと考えたときに、ちょっと東京にいるのはしんどく感じたんです。夫は以前から仕事で福岡に行きたいと言ってたし、夫に「今なら行けるよ」って言ったら即移住が決まりました。モーニング娘。や私の人生以上に、子どもを育てる環境を意識した瞬間でした。
――今はいいペースでお仕事ができているのですか。
はい、朝の情報番組にレギュラーで出演させていただいてます。東京ではありえなかったけど、今では一人で現場に入って一人で帰ってます。子どもをお留守番させることにすごく抵抗があるので、今は子どもが学校から帰って来る前には必ず家にいるペースで仕事ができるよう調整してもらっています。
――お子さんにお留守番させたくないというのは、どんな思いからでしょうか。
私が6歳のときに父親を亡くし、母は働きながら私を育てていたのでお留守番が多くて、寂しい思いをしたんですね。だからこそ同じ思いをさせたくないし私が仕事を受けることで家族に迷惑をかけたくないんですね。
――今後、お子さんの成長とともに、どのように仕事の仕方を変えていこうとお考えですか。
歌はずっとやっていきたいし、バラエティやテレビなどはできる限り出させていただきたいですが、舞台やお芝居はまだそこまで全集中できないので難しいと思います。子どもの受験も控えているし、まだまだ親の務めが残っているなと。
更年期で心身ともに絶不調だった49歳のころ
――そんな中で、来年のディナーショー「50+2」ではダンスを復活しますと。今から準備で大忙しですよね。
歌うだけでもエネルギーを使うし、そこに動きがつくとなると、年齢を受け入れつつ、でも逆らいつつ、日々体力をつけていきたいなと。モーニング娘。30周年をモーニング娘。だけでなくハロー!プロジェクトが全員集合して歌って踊ることが夢なので。
――卒業していろんな道を選んだ方もいますし、全員集合はなかなか難しそうですよね。
ですね。でもできる限り集まりたい。歴代のファンの集まりもそこでできたらいいなと。だからここから5年間は本当に体力勝負だと思っています。
――51歳になり、女性の身体としての変化も色々と訪れたのでは。
はい。30代から40代の時には経験しなかったことが次々と起きました。体調を崩しやすいし、朝からいきなり気分が沈んでネガティブになったり。ホットフラッシュや、何もないのにイライラしたり。体重の増減もすごく激しい。特に49歳の1年間は本当に心身ともに絶不調で更年期の入口でした。
――今もそれらの不調は継続中なのでしょうか。
体調面は気をつけないといけないのは変わりないですが、50歳になったらまず気分が楽になりました。むしろ怖がらず50でも60からでも新しいことは始められるとドーンと構えられるように。元メンバーたちにもケアしたりアドバイスもできるなって。
――体調面は辛いときはあっても精神的にはどんどん楽になっているんですね。
そうですね。年齢を重ねることを怖がっちゃダメだなと。年齢が上だから命が尽きていくわけでもないですし。何歳であろうがそのときに自分が幸せと感じる毎日を生きないといけないですよね。
――そんな話をお子さんにもするのでしょうか?
はい。よく子どもには「お父さんとお母さんはあなたたちよりも先にこの世からいなくなるけど、一日一日を大事に後悔のないように生きるんだよ」と伝えています。子どもたちにそう胸を張って言えるように、歌うことをやめたくないし、いずれお芝居もできる自分でいたいと思っています。
――生涯、歌って踊って現役でいたいと言う中澤さん。「裕ちゃんならできる!」そんなファンの声も中澤さんの支えとなってるのでしょうか。60歳になっても初代リーダーとして踊ってほしいです!
取材・文/河合桃子、集英社オンライン編集部ニュース班
撮影/MOTO(ライブ撮影以外)、池上夢貢(ライブ写真)