
2024年度(1月~12月)に反響の大きかった音楽記事ベスト5をお届けする。第4位は、再結成を発表したキマグレンの二人を取材した記事だった(初公開日:2024年8月25日)。
他界した母の願いを叶えるために
–––キマグレン再結成おめでとうございます。なぜこのタイミングで復活しようと思ったのか、まずは経緯を教えていただけますでしょうか?
KUREI キマグレンは2015年7月に解散しましたが、何か大きなきっかけがないと再結成できないとずっと思っていたんですよね。その中で、昨年8月に母親が亡くなりまして。亡くなる直前まで、母は「もう一度、キマグレン聴きたいな」って言ってくれていたんですよ。
それでISEKIに電話したんですが、そのときはまだ「再結成しよう!」とはハッキリ言えなくて。「そういえば、母親がキマグレンを聴きたいって言っていたんだけどさぁ……」くらいの曖昧な言い方だった気がします。
ISEKI それに対して、僕は「(再結成)してもいいんじゃない?」と答えました。
–––ISEKIさんも、再結成について考えていたということでしょうか?
ISEKI そうですね。キマグレン解散後、個人で活動を続ける中で、「もう一回やれたらいいなぁ」と漠然と心のどこかで考えていたと思います。
KUREI ISEKIがそう考えていたことについて、僕は察せていなかったんですよ(笑)。それくらい自分の活動に集中していたし、母が亡くなるまでは、僕の中でキマグレンを再結成させる気持ちは0%だったと思います。
だから、ISEKIへ電話したのは、僕の中ではとても大きな出来事で…まず、電話をかけるにもすごく勇気が入りましたね。スマホの着信履歴に残っている「井関靖将」という文字を凝視しながら、数日考えて、やっと電話をかけたという。
–––ISEKIさんとしては、KUREIさんから電話がかかってきたとき、「ようやくか」という気持ちでしたか?
ISEKI いや、そうでもなかったですね。二人ともそれぞれの活動があって、正直「キマグレンがなきゃ生活できない」という状態でもないんですよ。だからこそ、KUREIから電話が来たとき、シンプルな気持ちで「いいじゃん」って思えた。自立している状態だからこそ、変なプライドもなく、素直に受け入れられたんだと思います。ただ、KUREIは言いにくそうでしたけどね(笑)。
–––そう素直に思えた理由としては、お二人が自立して生活できていたことに加え、やはりキマグレン時代が印象深く記憶に残っているからでしょうか?
ISEKI 僕の中では、「やっぱりキマグレンってすごいな」という気持ちがあって。『LIFE』という曲が持っているパワーだったり、キマグレンというブランドだったり……当時は気がつかなかったんですが、解散して9年が経ち、ソロとしても活動する中で、「やっぱり(キマグレンには)敵わないな」と思ってしまう部分があったんです。あのエネルギーは、やっぱりキマグレンだからこそ生み出せていた。
KUREI 正直なところ、僕はISEKIよりも深く考えてなくて……。冒頭の話に戻りますが、僕には母に何かをしてあげたことが全然なかったんですよ。生前、母にはすごく大事にしてもらっていたのに、なぜかずっと素直になれなくて。
葬儀などがひととおり済んだあとに「俺、何もしてあげられなかったな」と、2か月くらいずっと悶々とした気持ちだったんです。それで、「そういえば、キマグレン聴きたいって言っていたな」と、重い腰を上げてISEKIに電話をかけた、といった具合です。
ただ、きっかけはそういったものでしたが、現在は「今までの感謝を」とか言うつもりもなく、純粋にキマグレンとして二人で本当にいいもの発信できたら、と考えています。
キマグレンとしての活動は「楽しめなくなっていた」
–––KUREIさんは、再結成に際して「キマグレンの活動の後半は、自分的に辛い事も多くて、追い詰められていた」とコメントしています。具体的に、どんな辛いことがあったのでしょうか。
KUREI キマグレンのパブリックイメージと実像の間に、大きなギャップが生まれてしまったんですよね。キマグレンならこうあるべき、キマグレンならこういう発言をするだろう……実際、世間的には熱量があって、クリーンで、好青年で、お茶の間っぽいキャラクターとして認識されていたと思います。
でも、本当はただの「地元のヤンチャな小僧たち」なんですよ。それなのに、誰かのお手本にならなきゃいけない、キマグレンのイメージを守らないといけないと意識しすぎてしまったんです。
–––その間、楽曲制作やライブパフォーマンスは楽しめていましたか?
KUREI いえ、まったく。キマグレンとしてこうなりたいな、というものがなくなっちゃっていたんですよね。常に「こうしなきゃ」という気持ちが先行してしまって、全然楽しめなくなっていました。
ISEKI KUREIはやりたいことがあっただろうけど、当時はそれを実現できる制作環境ではなかったし、それに対してフラストレーションが溜まっていたんだろうなと思います。僕は比較的従順なタイプで、マネジメントやレコード会社の意向に沿う形で楽曲制作と向き合えるんですよ。でも、それは音楽へのスタンスの話なので、いいものが生まれるかどうかはまったく別。だから、きっと僕も活動を楽しめなくなっていたんだろうと思いますし、ビジネスとして音楽をやるという方向性はキマグレンに向いていなかったのだと思います。
KUREI 「こういったメロディーが欲しい」とか「こういう歌詞にしよう」とか、周りに言われすぎちゃったんでしょうね。
ISEKI そうだね。だから突拍子もない発想とか、「これ、おもしろそう!」みたいなアイデアとか、そこから生まれる化学変化がなくなってしまったんでしょうね。
–––解散後、KUREIさんとISEKIさんはそれぞれソロやバンドとして活動を続けてきました。その間にキマグレンを振り返ることもあったかと思いますが、「キマグレンでしかできないこと」とは何だったのでしょうか?
KUREI まずは当たり前ですが、キマグレンとして作った曲を、キマグレンとして歌うということですね。
ISEKI 僕には、「KUREIとしかできないキャッチボール」があるんですよ。ソロのときには、いろいろなミュージシャンやプロデューサーの方々とご一緒させていただいたんですが、楽曲制作でも僕が中心となって、基本的な部分はすべて決めていたんです。でも、キマグレンではKUREIと僕は同じ立場だったので、何回も意見を交えないと先に進むことができなかった。一見めんどくさそうなんですが、今思うと、実はそれがよかったのかなと。失敗を含めて、深いコミュニケーションが取れていたというか。
KUREI そういう意味だと、今二人でスタジオに入ると、すごく楽しいんですよね。キマグレンが解散したあとの9年間は、音楽知識も経験も豊富なバンドメンバーに自分のやりたいことをぶつけて、クリエイティブが爆発した期間でもあるんです。そこで得たアイデア・経験を、今キマグレンに持ち帰ってきたので……。
ISEKI この前のスタジオも楽しかったね。
KUREI 最初は「スタジオ入る意味あるの? お金の無駄じゃない?」とか言っていたのに(笑)。
ISEKI 僕の場合、この9年間 1人でやってきたので、練習もアレンジの考案も、作業はすべて自宅で完結しちゃうんですよ。
「音霊OTODAMA SEA STUDIO」での青春時代
–––キマグレンが解散したあとの9年間、お二人は連絡を取り合っていたのでしょうか?
KUREI 一緒にご飯食べに行くなど、ちょいちょい連絡したり、会ったりしていましたよ。古くからの友人なので、そこはキマグレン解散後も変わらなかったです。
ISEKI 別に二人の関係が破綻して解散したわけではないですからね。
–––お二人は、もともと幼馴染だったんですよね?
ISEKI そうです。小学校のときに地元の遠泳大会で出会っていますが、お互いの存在をしっかり意識したのは15歳のときですね。
KUREI 住んでいる地域も一緒で、もともと共通の知り合いがたくさんいるような関係性でした。
–––その後、2005年にキマグレンが結成されるわけですが、きっかけはKUREIさんがISEKIさんに「海の家を一緒にやらないか?」と声をかけたことだと聞いています。
KUREI そうです。海の家ライブハウス「音霊OTODAMA SEA STUDIO」を作るために誘って、キマグレンはその後に結成した形ですね。
ISEKI 全然儲からなかったけどね(笑)。
–––なぜ、そこから音楽活動を一緒に始めることになったのでしょうか?
ISEKI 「音霊OTODAMA SEA STUDIO」では毎日のようにアーティストが出演してくれていたんですが、毎日ブッキングできるわけではなく、どうしても空き日が出てくることは当然ありまして。でも、僕らとしてはスケジュールを埋めて、売上を立てなきゃいけない。そこで、「友だちをたくさん呼んで、俺らが演奏しよう」となったんです。
KUREI 空き日が出るたびに自分たちが出てるから、お客さんが2人しかいないときもあったよね。
ISEKI でも、お客さんが少なくても、ステージに立つのは楽しかったんですよね。それぞれ当時組んでいたバンドでも出演したりして。
KUREI 僕は「The Chicken」というパンクバンドで出演していましたし、ISEKIは「クックドゥードゥルドゥー井関」とか「井関靖将とようこそ楽団」っていうのもやっていたよね。今思うと、総じてネーミングセンスがひどい(笑)!
ISEKI クックドゥードゥルドゥー井関では、ニワトリの被り物を着けて、レゲエのビートに乗せながら下ネタを言うだけという……(笑)。とにかく人を呼ばなきゃいけないから必死でしたけど、同時にすごく楽しい時期でもありましたね。
取材・文/毛内達大 撮影/下城英悟