
ソ連が崩壊したことで失敗だったという評価が下されがちな旧社会主義国。しかし、「男女平等」の観点から見ると、ユートピアのような一面があったという。
その背景を、科学ジャーナリストのアンジェラ・サイニーが仔細に分析した『家父長制の起源』より一部抜粋、再編集してお届けする。
家事が「外注化」されていたハンガリー
「1990年代にアメリカを訪れたときのことです。人々が実際に自分たちで夕食をつくっているのを目にして驚いたことを覚えています」と、中央ヨーロッパ大学でジェンダー研究の准教授を務めるエヴァ・フォドルは言う。「私の想像をはるかに超えていました!」。
フォドルは国家社会主義が支配するハンガリーで、都会に暮らす聡明な共働きの両親に育てられた。「学校の食堂で昼食をとり、家に帰って夕食にサンドイッチを食べていました。つまり、母はまったく夕食をつくっていませんでした。食堂から食べ物を持ち帰る人たちもいました」と彼女は言う。
フォドルの両親は、洗濯物を公共の洗濯サービスに持ち込んでいた。「ほとんど無料」で洗って戻してくれるのだ。彼女が知っていた子どもの多くは、一定の年齢になると幼稚園に通った。それが彼女のような中流家庭の暮らしだった。
小さな町や農村地域の家庭では、選択肢はもっと少なかった。だが国家は、彼女が属する社会集団の人々に対しては、家庭で行うべき仕事の少なくとも一部を、政府が補助金を与える公共サービスに外注させることで支援していた。家事労働の完全な社会化である。
活動家のアンジェラ・デイヴィスは1981年、著書でこの画期的なアイデアを取り上げた。食料生産が家族経営の小規模農場での過酷な家内労働から大手の農業法人や食品メーカーによる大規模生産に移行したように、家庭での仕事はなぜ産業経済に取り込まれないのか。彼女はそう問いかけた。
「訓練を積んだ、高い賃金の労働者がチームになって、家庭から家庭へと回り、高性能の清掃機器を駆使すれば、現在、主婦が苦労して昔ながらのやり方でこなしている仕事を、迅速かつ効率的に仕上げることができる」とデイヴィスは言う。こうして合理化すれば、誰もが負担できる料金で、家事を提供できるようになる。
デイヴィスはこれを、資本主義社会の最も注意深く守られた秘密の一つだと説明し、「家事の性質を根本的に変える可能性が十分にある」と書いている。
もちろん、この夢は世界のどこでも実現されていなかった。だが、ヨーロッパの社会主義諸国では、少なくともそれに近づこうとする努力が見られ、女性は昔と同様に働くことができていた。
男女平等で優れていたのは旧社会主義国
エヴァ・フォドルは職場での男女の不平等について、彼女が育ったハンガリーと隣国のオーストリアを比較している。オーストリアは社会主義国ではないものの、第二次世界大戦後に政治体制が分かれるまでは、文化的にはハンガリーと同じ歴史をたどってきた国だ。
1949年の段階では、両国とも大学生の約5分の1が女性だった。1970年代に、ハンガリーの大学では男女比が同じになった。一方、オーストリアで男女比が同じになったのはようやく20世紀も末になってからだった。
1982年にハンガリー人女性で主婦と分類されていたのは、わずか5パーセントだったが、オーストリアの主婦の割合は40パーセントにのぼっていた。1970年代に制定された法律では、オーストリアの既婚女性は、働く前に夫の許可を得なければならなかった。
ハンガリーはなぜ、それほど短期間にジェンダー平等を実現できたのだろうか。フォドルによると、それは法律、プロパガンダ、男女別の定員、たっぷりの出産休暇、工場や職場内に併設された幼稚園や保育所、仕事と結びついた社会・健康奨励金(子どもの看護休暇や補助金による温かい食事サービス)など、さまざまな要因が組み合わさった結果だった。
ハンガリーの社会主義に基づく国家体制は、「短期にとどまらず長期にわたって、男女の不平等を変容させ、縮小し、再定義する」うえで重要な役割を果たしたとフォドルは書いている。「それに対して、オーストリアでは、市場原理、高度な経済成長、自律的なフェミニズム運動のいずれも、ジェンダー平等を一気に実現することはなかった」。
これらの両国を文化の実験場と見れば、どちらの国が急激な変化をもたらしたかは明らかだ。大胆な変化を起こすという点で優れていたのは、社会主義国だった。
旧社会主義国では労働形態が広範にわたって変化したため、鉄のカーテンの崩壊から30年以上が経った今でも、人々は働く女性について、私たちとは異なる考えをもっている。
ドイツ労働市場・職業研究所によると、再統一から数十年が経った2016年に、男女の賃金格差がドイツ東部では6パーセント強だったのに対して、ドイツ西部では23パーセントを超えていた。ドイツ東部のブランデンブルク州にある学園都市コットブスでは、男女間で賃金を比べると、わずかに女性のほうが高かった。
「社会主義国家はジェンダー規範を変えました。賃金を得て働く女性に関する規範は、15年のあいだに変化を遂げたのです」とフォドルは言う。「それは人々の考え方にも長期的な変化をもたらしました。女性が賃金を得て働くという考えは完全に普通のことになり、女性もキャリアをもち、仕事に意味を見出すようになりました」。
フォドルの同僚で、中央ヨーロッパ大学で比較文学とジェンダー研究の教授を務めるヤスミナ・ルキッチは、社会主義体制下のベオグラードで育ったため、「女性だから給料が下がるなど想像もできなかった」と書いており、1970年代に学生としてカナダに移り住んだとき、あまりの違いに、そこでのフェミニズム闘争に参加する自分を想像できなかったとも話す。それまでの彼女の文化体験とはまったく異なっていたからだ。
そして、「デイジーダックが間抜けなドナルドダックとしきりに結婚したがるのにも、ミニーマウスがガレージの壁に車をぶつけるのにも、いつも腹が立っていた」と言う。彼女の家族では、「運転できるのは母だけで、父は技術に関する知識もスキルもまったくなかった」とルキッチは書いている。
中央・東ヨーロッパに女性の科学者やエンジニアが多い?
現在、西ヨーロッパとアメリカ合衆国では、科学、工学、技術の分野に携わる女性の割合が世界最低水準であり、その対策が続けられているが、中央・東ヨーロッパにはそうした問題は存在しない。
国際科学雑誌の「ネイチャー」は2019年、女性が執筆した公表論文の割合から判断すると、中央・東ヨーロッパの大学は、ジェンダーバランスが世界で最も優れていると報告した。ポーランドのルブリン医科大学とグダニスク大学は第1位と第4位だった。
旧社会主義諸国には今でも、女性の科学者やエンジニアを普通だと考える文化的遺産が残っている。「女の子がエンジニアになりたいと言っても、おかしいとは思いません。誰もそれを変とは思わないでしょう」とフォドルは言う。彼女の母親は1950年代に、エンジニアになるための訓練を受けていた。ハンガリーの女性たちが技術系の大学で学ぶことを推奨されていた時代だった。
カリフォルニア・ポリテクニック州立大学のコンピューター科学者であるハスミク・ガリビアンは、旧アルメニア・ソビエト社会主義共和国のエレバン国立大学のコンピューターサイエンス学部では、1980年代から90年代まで、女性の割合が75パーセントを下回ることがなかったと書いている。彼女も共著者も「これはタイプミスではありません」と指摘する必要があった。
また、ドイツのボンにある労働経済研究所は2018年、数学の成績のジェンダー格差がドイツ西部よりもドイツ東部のほうが小さいことを示す論文を発表した。1991年以降、旧社会主義諸国は、高校生を対象に毎年開かれる国際数学オリンピックの大会に、他国よりも多くの女子生徒を送り込むようになっていた。
ドイツが再統一されるまで、少女たちは何世代にもわたって、住んでいる場所によって異なる性別ステレオタイプを目にしてきたと研究者らは説明する。
西ドイツでは、男子生徒と女子生徒は学校で同じカリキュラムを受けてさえいなかった。一方、東ドイツでは、1949年から1989年まで、非常に人気のある雑誌だった「ノイエ・ベルリナー・イルストリールテ」に、「ジャーナリスト、教授、准将、工場労働者としてプロフェッショナルに活躍する『解放された』女性」が掲載されていた。
同様に、1990年代初頭に旧ソ連からイスラエルに移住した数千人のユダヤ人移民を対象
とした研究では、この集団の女子高生は、旧ソ連から移住していない家庭の女子高生に比べて、科学、技術、工学、数学を専攻する傾向がはるかに強いことが明らかになった。旧ソ連出身のユダヤ人女性も、現地で生まれたイスラエル人やほかの移民と比べて、フルタイムで働く傾向が強く、科学や工学の分野で働く人も多かった。
文/アンジェラ・サイニー(訳=道本美穂) 写真/Shutterstock
家父長制の起源 男たちはいかにして支配者になったのか
アンジェラ・サイニー (著), 道本 美穂 (翻訳)
《各界から絶賛の声、多数!》
家父長制は普遍でも不変でもない。
歴史のなかに起源のあるものには、必ず終わりがある。
先史時代から現代まで、最新の知見にもとづいた挑戦の書。
――上野千鶴子氏 (社会学者)
男と女の「当たり前」を疑うことから始まった太古への旅。
あなたの思い込みは根底からくつがえる。
――斎藤美奈子氏 (文芸評論家)
家父長制といえば、 “行き詰まり”か“解放”かという大きな物語で語られがちだ。
しかし、本書は極論に流されることなく、多様な“抵抗”のありかたを
丹念に見ていく誠実な態度で貫かれている。
――小川公代氏 (英文学者)
人類史を支配ありきで語るのはもうやめよう。
歴史的想像力としての女性解放。
――栗原康氏 (政治学者)
《内容紹介》
男はどうして偉そうなのか。
なぜ男性ばかりが社会的地位を独占しているのか。
男が女性を支配する「家父長制」は、人類の始まりから続く不可避なものなのか。
これらの問いに答えるべく、著者は歴史をひもとき、世界各地を訪ねながら、さまざまな家父長制なき社会を掘り下げていく。
丹念な取材によって見えてきたものとは……。
抑圧の真の根源を探りながら、未来の変革と希望へと読者を誘う話題作。
《世界各国で話題沸騰》
WATERSTONES BOOK OF THE YEAR 2023 政治部門受賞作
2023年度オーウェル賞最終候補作
明晰な知性によって、家父長制の概念と歴史を解き明かした、
息をのむほど印象的で刺激的な本だ。
――フィナンシャル・タイムズ
希望に満ちた本である。なぜかといえば、より平等な社会が可能であることを示し、
実際に平等な社会が繁栄していることを教えてくれるからだ。
歴史的にも、現在でも、そしてあらゆる場所で。
――ガーディアン
サイニーは、この議論にきらめく知性を持ち込んでいる。
興味深い情報のかけらを掘り起こし、それらを単純化しすぎずに、
大きな全体像にまとめ上げるのが非常にうまい。
――オブザーバー