
「お母さんは?」と聞くと「もう帰ったよ」と先生は言った。瞬間的に「騙された!」と思った……親から捨てられ、幼少期を児童養護施設(当時の孤児院)で過ごしたOさん(54歳)はそう振り返る。
5歳のとき母に孤児院に置き去りにされる
“親ガチャ” という言葉があるように、子どもは親を選べない。
東京都杉並区に、4人家族の長女として生まれたOさん。現在は東京都昭島市で、18歳の長女と17歳の長男と3人暮らしをしながら、発達障害の自助グループを運営している。
4歳までは平凡な人生を送っていた彼女の生活は、両親が離婚したことをきっかけに激変した。
「両親の離婚調停中は、母と妹と3人で、親戚の家でお世話になっていました。ある日、母に離婚を告げられましたが、父親っ子だった私は、父の “迎えにいくよ” という言葉を信じていたので、そのときは、父と会えなくなるなんて思ってもいませんでした」
Oさんはカウンセリングの治療を受ける38歳まで気づかなかったが、父と離れたショックから、その当時の記憶がないという。
次に覚えている記憶は、母から児童養護施設(当時の孤児院)に置き去りにされたときのことだ。
その日は、母と児童相談所の職員男性の3人で「お友だちがたくさんいるところに行こう」と言われ、出かけた。「大人だけの話があるから待っていてね」と言われ、若い職員とブランコに乗ったりして遊んでいた。
「夕方になり、施設の先生に『ママは?』と尋ねると、『帰ったよ』と言われ、自分が騙された、置き去りにされたと分かりました。当時、5歳だった私は涙が止まらず、胸が張り裂けそうでした」
そのときに初めて喘息の発作を起こし、体力がつく中学生までは入退院を繰り返すようになる。
そこから、児童養護施設での暮らしが始まるが、喘息の発作を起こしても放置されるような劣悪な環境だった。
Oさんは長期の休みのときは、家に帰れたが、施設内の他の子どもの多くには帰れる場所がなかった。
帰れない子はOさんを妬み、いじめてくるようになり、母は幼い彼女を「お前の顔はお父さんそっくり」「お前のお父さんに強姦されたせいでお前を妊娠した」となじり、Oさんをネグレクトした。そのままどこにも居場所がない小・中学校時代を送る。
子どもが生まれたけれど虐待の連鎖が怖かった
Oさんは、中学校卒業とともに、施設を退所し実家で暮らすことになった。だが、母は恋人との暮らしを優先したため、服飾専門学校に通いながら、バイトして自活した。
だが、学費のかかる専門学校とバイトの両立は厳しく、1年で学校を辞めることになる。そこからは、キャバクラを転々としながら、生計を立てた。
彼女の精神は安定せず、うつを発症する。幸せな家庭を夢見ていた彼女は、28歳のときに最初の結婚もしたが、性格の不一致から1年ほどで離婚した。
「家庭に恵まれなかったことで、自分の血を分けた家族が欲しいという気持ちは強かったです。正直、相手は誰でもよかったです。
だけど、虐待は連鎖するということを出産後に知り、自分が子どもを虐待するのではないかという恐怖から、育児ノイローゼになりました」
「普通の母」「普通の家庭」が分からなかった彼女は、ネグレクトになるんじゃないかという怖さから、子どもが少しでもグズると、短時間でも放っておくことができなかった。あやすことに集中した結果、掃除や料理などの家事もままならなくなった。
38歳の時に精神科を受診すると、境界性パーソナリティー障害の診断が下った。
「障害があると子を虐待しやすいと知り、本を片っ端から読んで、子に悪影響が出ないようにしようと思いました」
離乳後に、服薬とカウンセリング治療を8年続けたが、特にノイローゼ状態が改善することはなかった。
娘と息子にも障害があることが発覚
Oさんは長女の出産の翌年に長男を出産したが、長男が1歳半検診のときに、発達の遅れを指摘されている。
特に治療や療育を勧められるでもなく、そこから6年間は定期的に療育センターと面談を繰り返した。
「娘が小6のときに、学校でトラブルを起こしました。反抗期だった娘を真似て、小5の息子まで家で暴れ、警察を呼ぶような状態になりました。
自分の障害の影響なのではないかと思い、児童精神科にかかることにしました。医師からは『問題なのは上の娘さんではなく、息子さんです』と言われました」
息子は重いASD(自閉症スペクトラム障害)だった。娘には軽度のADHD(注意欠如・多動症)診断が下る。
「パーソナリティー障害だと言われ、服薬を続けても、何の変化もなかったです。だけど、抗ADHD薬は劇的に効きました。1歳半検診の時にもっと私がしっかりしていたら、息子を適切な医療に繋げられたという思いから、親子で通える今の発達障害の自助会を立ち上げました」
反抗期の娘と一触即発状態だった夫と離婚し、3人での生活をスタートした。
息子への児童虐待を疑われる
ASDの長男は不登校からうつ状態となった。暴力は止まなかった。部屋の家具を破壊するため、生活安全課に何度も通報したという。
そんな状態だったにもかかわらず、児童相談所は、彼女の虐待が原因だとして、子への施設入所を認めろと親子を引き離した。
「私は自分がされたような虐待を子にしないことを最も気遣ってきました。虐待なんかするわけがない。何よりも自分が嫌な思いをした、養護施設に息子を入所させることに抵抗がありました」
施設で暮らしだした息子は、やはり自分が遭ったように、物を壊される・お金を盗まれるといったいじめに遭う。
長男は小学校6年生から高校1年生までは施設にいたが、居心地の悪さから、たびたび家に帰ってきた。
現在は、進学のために独立した娘が週末に帰宅し、息子は家にいるという3人暮らしをしている。福祉がなければ生きられなかった。だが、その福祉に翻弄されたように見えるOさんが今、思うことを聞いた。
「“普通の家庭” がどうなのか分からないのですが、娘には就職する年齢までは一緒に暮らして欲しかったです。だけど、芸術家肌の娘にはカメラマンになるという夢があります。応援したいです」
だが、Oさんの寂しさは、子どもたちが一番よく分かってくれるという。
「今でも、布団に潜り込んで甘えてくれたり、逆に私が心の傷を癒されています」と照れ臭そうに笑う彼女に、虐待の影は表面的には見えない。
厚生労働省が出す「子ども虐待対応の手引き」によると、子ども虐待はいくつかのタイプに分けられるが、いずれにおいても子どもの心身に深刻な影響をもたらす。
児童養護施設においても虐待経験者への支援を強化することが求められている。Oさんもいまだに、フラッシュバックに陥ることがあるという。
しかし、その保護先の、児童養護施設でさらに職員や子ども間の虐待が存在し、厚生労働省は、ようやくその実態調査に乗り出したような状態だ。
子どもは社会全体で育てるという大人たちの意識改革が必要なのではないか。
取材・文/田口ゆう