
今年でデビュー25周年を迎えた俳優・川村陽介は、ヤンチャな青年から、硬派な刑事まで。幅広い役を演じ、数々のテレビドラマで注目を集めてきた。
なかでも、『ROOKIES』(’08年)では全国的な知名度を獲得し、俳優としてのキャリアを大きく飛躍させるきっかけになった。そんな彼に、平成ドラマ撮影のリアルな裏話を聞いた。 (以下、「」内は川村氏のコメント)。(前後編の前編)
俳優・川村陽介の転機
2000年に行なわれた21世紀ムービースターオーディションでは審査員特別賞を受賞。同年、赤川次郎原作の『死者の学園祭』(’00年)でデビューを果たした。
当時17歳の彼はどんな心境で初演技に臨んだのか。
「かなり緊張してたことは覚えてます。ただの田舎の高校生が、大人がたくさんいる現場にいきなり連れていかれて……。
役名もなかったし、 セリフも2~3言くらいしかなかった。でもそのセリフをめちゃくちゃ家で練習したなぁ。
母は素人なのに、こうじゃない、ああじゃないって」
俳優としてデビューした後、レッスンやオーディションを受ける日々が続いたという。
2002年、20歳になる頃、故・蜷川幸雄監督の映画『青の炎』(’03年)のオーディションを受けることになった。
「当時はレッスンに通いながら、あらゆるオーディションを受けまくってたけど、落ちてばかり。どうせこんなもんだろうってやさぐれてましたね(笑)。
(ドラマや映画の撮影)現場にも出られないので、お芝居のやり甲斐もまだ見出せてなかった。辞めたいとまでは思ってないけど、大変だったし、このままじゃ俳優は続けられないだろうなって。
そんな時に『青の炎』のオーディションを受けたら、二宮くんのクラスメイト役に合格しちゃったんですよ」
映画『青の炎』は二宮和也が映画初主演を果たし、監督は演劇界の巨匠・蜷川幸雄さん(享年80)が務め大きな話題を集めた。
すでに蜷川監督は、「怖い監督」として有名だったため、怯えながら現場へ出向いたという。
「『蜷川さんの現場は気をつけろよ、灰皿飛んでくるからな』とか、やたらと周りの人が脅してきて、ビビりながら現場に行きました。
でも実際に会ったら、めちゃくちゃ優しかったんですよ。蜷川さんはひとつひとつ丁寧に指導してくれました。
僕は、『演技は楽しくない』ってずっと思っていたけど、演技とはなんぞやっていう、極意みたいなものを蜷川さんが教えてくれましたね」
そう話す川村だが、彼にはひとつ心残りがあるという。
「唯一の心残りは蜷川舞台に出れなかったこと…。
「早く来た順で席に座れるんですよ」
蜷川監督との出会いをきっかけに演技の楽しさを見出し、俳優活動が本格化していく。
2005年には人気学園ドラマ『ごくせん』(第2シーズン)(’05年)への出演が決まった。当時の気持ちを鮮明に覚えているそうで。
「ごくせんは、『なにくそ!』って気持ちでやってましたね。メインの生徒役が5人いるんですけど、僕はその他の生徒役だった。
亀梨くん、赤西くんがメインで、プラス何人かいてみたいな。(※当時、脇を固めたのは小出恵介、小池徹平、速水もこみち)
ごくせんの撮影現場はもうすごい格差社会なんですよ(笑)。移動もメインの5人は専用の車、その他の生徒はマイクロバスで、みたいな。
基本的に仲はいいし、喧嘩もないけど、メインの生徒役に対して『将来、見返してやろうな』っていつもみんなで話してましたから。いい意味でライバル心がありましたね」
悔しさを抱えながらも、仲間と切磋琢磨しながら演技に向き合う。しかし、セリフがあるのはメインの生徒5人だけ。その他の生徒にはセリフがないため、彼らの後ろに写り込み、いかに目立つかを競い合ったとか。
「当日現場に来たら台本を見てカット割りを確認するんです。
普通の学園ドラマは大抵席が決まってるけど、ごくせんはヤンキーの教室なのでぐちゃぐちゃ。机と椅子がちゃんと整列されていないっていう。
そこでメインの『抜け』。つまり、カメラが向いている方向のバックグラウンドをみんなで取り合っていました。
次のシーンでこいつが喋るからここに入ってアドリブでセリフを言おう!って感じで。短い時間でいかに目立てるかが勝負でした」
「辞めるなら今なのかもしれない」
人気ドラマに出演するも、物足りなさを感じていた川村。その後もオーディションを受ける日々は続いたが、ことごとく落選したと話す。
「何本かドラマに出演してもあと1歩足りない。点が線にならず、全て点のままだと感じてました」
そんなもどかしい気持ちを抱えながらいた川村に再び転機が訪れる。それは、ドラマ『タイヨウのうた』(’06年)のオーディション時のことだ。
「『これが受からなかったら俳優辞めようか』って当時のマネージャーに言われたんですよ。
『人生を考えるターニングポイントはここだ。俳優人生このまま鳴かず飛ばずで、ずるずるいくと、お前の人生によくない』って」
当時22歳の川村は17歳でデビューして5年が経過したころ。俳優活動ではなかなかブレイクできず、一般人に戻るかどうかも含め、将来を考える分岐点だった。
「同世代は大学を卒業して社会人になる年齢だったんで、辞めるなら今かもしれない…との思いが頭をよぎりました。
その時、『ここで死ぬ気でオーディションに臨んだ方が将来のためじゃないか?』ってマネージャーが言ってくれたんです。
当時は漠然とオーディションを受け続けていたから、ハッとしたんですよね。
僕のことを人として、本気で考えてくれた言葉だと感じました。そのおかげでケツに火がついて、絶対に受かってやるっていう気持ちが生まれたんです」
マネージャーに発破をかけられたおかげもあってか、合格を掴み取った川村。そして、このオーディションは、俳優人生を大きく変えるきっかけでもあった。
「オーディションを受けてる時に、突然会場に入ってきた人がいたんですよ。
終わってからマネージャーに聞いたら、『(川村の)名前に丸をつけたよ』って」
プロフィールに丸をつけた人物。それこそが津留正明氏。
「オーディション審査員に『あの子、最後まで残しておいてね』って言ってくれたそうです。
『ROOKIES』の後も、津留さんとお仕事でご一緒することがあったんですけど、『あの時のお前は良かった。1人だけやる気が違ったんだよ』って話してくれました。
そう考えると『タイヨウのうた』は大きな転機でした。俳優を辞めるかどうかの時に掴んだ未来への切符だったと思います」
後編では、『ROOKIES』での撮影裏話や川村の現在値について話を聞く。
取材・文/桃沢もちこ