
陸上競技のハンマー投げ選手としてアジア競技大会5連覇を達成し、「アジアの鉄人」と呼ばれた室伏重信氏。自身のスポーツ哲学について余すことなく語った著書『野性のスポーツ哲学 「ネアンデルタール人」はこう考える』を上梓した。
本記事では、書籍を一部抜粋・再構成し、室伏氏が考えるアスリートのピーク、人間の可能性について紹介する。
競技から見る「人間の可能性」
自動車、飛行機などの乗り物、さらに宇宙ステーションに人を運ぶロケットは、ここ200年の間に実現したものである。また携帯電話やパソコンは約40年前に実用化され、今や世界の多くの人が所持するようになった。
科学はここ100年の間、人類史上もっとも進歩発展を遂げた。そしてこれからもさらなる進歩は続いていくものと思われる。このように進歩発展を促すものは、「開発したい」「達成したい」といった人間の欲望である。この開発欲や達成欲というような欲望は、そこに可能性を見出したときに生まれる。
これを競技スポーツから考えてみる。競技スポーツにおいての結果は、勝ち負けや記録として表れる。このため、ほかの分野より評価はしやすい。
この場合の評価は、特に選手個人の満足度が中心となるが、自らのパフォーマンスと、ほかの選手(またはチーム)との比較からなる。そして最終的には選手自身の自己評価により、次なるステージに進むことができる。
自分自身がさらなるステップアップをしようと思えば、精神力、技術力、体力、調整力などから可能性を見出して、それを強化するための実践に移す。
私のハンマー投げも、考えてみれば大きな可能性が秘められていたことになる。社会人1年目の22歳、1968年のメキシコ・オリンピックの最終選考会である日本選手権では、60mも投げることができなかった。
だがその後、技の追求とトレーニングに没頭して、38歳となった1984年には、75m96㎝まで記録を伸ばすことになる。今考えると、よくここまで記録を伸ばせたと思う。
可能性を見出しては達成し、また新たなる可能性を見出し達成していく。これを何度も繰り返してきた結果、75mを超える自己ベストの記録にたどり着いた。
だがこの記録を達成したことで、私が極限の高まりに至ったかというと、そうではない。80代を迎えようとしている2024年現在、体力面ではピークを過ぎてしまったが、技術面では、まだやるべきものを多く残している感がある。
私が考える「極限の高まり」とは、生涯体力のピークと、生涯技術レベルが共にもっとも高いところにあり、その両方が合致したときである。
私はその極限を逃してしまったが、それは技術の難しさと複雑さがある、ハンマー投げという競技を選んだからだと思う。ハンマー投げでは、世界トップレベルにある選手たちを見ても、体力と技術のピークが合致した者は少ない。
筋力と精神力、それぞれのピーク
またハンマー投げに限らず、競技スポーツ全般のピークは、肉体と精神のふたつの面から考える必要がある。
肉体面は筋力、パワー、持久力から見る。筋力のピークは、一般的に男性が28歳、女性が26歳とされているが、私のウェイトトレーニングなどから見ても、たしかにそうであった。パワーのピークも、およそ同じ時期である。
持久力は、長距離選手やマラソン選手の最高記録に達した年齢が参考となる。持久力も、およそ30歳前にピークを迎える。このように、筋力、パワーと、持久力のピークは、同じくらいの年齢で迎えることなり、そのピークは数年続く。また体型面や身体の柔らかさなどが要求される競技は、ピークがそれよりも早い時期にくる。
精神面は、幅広く見る必要がある。心は常に肉体をコントロールしている。その心に問題が生ずれば、トレーニングどころか健康の維持もできない。また心には、物事をやり遂げる精神力や、動きを改良したりする創造力、さらに調整力などがある。
これらの能力も、心が正常に機能しているときのみ働く。
そして、心が正常なときに、肉体面も生涯でもっとも高めることができれば、生涯競技力のピークが見えてくる。だが心は、パフォーマンスの低迷や故障などにより、肉体的なピークを迎える前に、自ら競技生活に終止符を打つこともある。
さて、可能性があるということは、潜在する能力を秘めているということでもあり、その潜在能力を引き出すことが、パフォーマンスの向上につながる。私は、夏と冬のパラリンピックをテレビで見たことがある。手、腕、脚、そして目の不自由な選手たちが、健常者には考えられないような能力を発揮する。
損傷した個所を補い、日常生活をしていくだけでも大変なはずであるが、それ以上に厳しい競技スポーツにおいては、さらなる潜在能力を引き出していかなければならない。
もちろん一般の社会生活を営む健常者も、生きていくために食料を得て、住まいを見つけるために、潜在する能力を引き出して生活している。だが逆に、経済的にも生活環境にも問題がなく、安定してそれが長く続くと、人の潜在能力は発揮されないことが多い。
何不自由のない生活を長く続けると、人は社会生活を営むことができないほど弱くなる。名家や一族経営の会社は「三代目で潰れる」といわれるが、これはまさに、潜在する能力を引き出さなくとも、十分生きていくことができる環境に生まれついているからだ。
潜在能力を引き出すためには
また「全か無の法則」というものがある。ウェイトトレーニングでこれを説明する。
最初の軽い重量では、回数を多くしても苦にならない。これは筋肉内にある筋繊維の働いている数が少ないためである。だが極限の重量に挑戦するときは、筋繊維のほとんどすべてが働く。
このため、たった1回とはいえ大変きつく感じるのだ。私は筋力アップが必要なことから、筋繊維のほとんどすべてを一度に働かせるために、このような練習を行なった。これも潜在する能力を引き出すひとつの方法である。
このように潜在する能力を引き出すには、何らかの強いインパクトが必要なのかもしれない。なぜならば、人は厳しさを求めるより、楽をして過ごしたいという考えが根底にあるからだ。
私も中学生のころ、隠居生活に憧れを持っていたことがあった。怠け癖があったのかもしれない。勉強にしても、自分の興味の持てないことは面倒くさい。しかし陸上競技を始めてからは、考え方が一変した。特にオリンピックに出場したいと思うようになってからは、厳しいトレーニングもあえて行なう強い心を持つようになった。
潜在能力とは、自分がこうしてみたいと思うときに、必然的に引き出される力である。だから関心のないことをしていても、それ以上の力は出てこない。要するに、自分が持っている能力でまだ発揮していないものがあるだけで、その力を発揮しなければいけないときに現れるのが潜在能力なのである。
競技の道に入って真剣勝負をするようになり、私は変わった。息子と娘もそうだった。競技で勝つために練習することで、記録が伸びていく。能力が伸びていく。
スポーツでなくても、何か真剣に打ち込むものがあればいい。そこに向かうことによって、子どもが横道にそれることもなくなると思っている。価値観が変わってくるからである。
これは決して、私たち家族だけに当てはまることではない。すべての人にその可能性はある。そしてそれは競技スポーツだけではなく、あらゆる分野においてである。
また人にはそれぞれの個性(特性)があるので、その個性をよく知って、自分にとって、より可能性の高いものを見つけるべきであろう。だが大きな可能性のあるものを見つけただけでは、事を成すことはできない。
厳しい道のりにはなるだろうが、やはり自分の中に眠っている能力を引き出してこそ、成果は出せるのである。
野性のスポーツ哲学 「ネアンデルタール人」はこう考える
室伏重信
「アスリートから芸術家まで。今、困難を乗り越えて、何かを獲得しようとしている人々にとって示唆に富む本」室伏広治氏
◆内容◆
陸上競技ハンマー投げ選手としてアジア競技大会5連覇を達成し、「アジアの鉄人」と呼ばれた著者。
競技者としてだけではなく、長男でアテネ五輪金メダリストの室伏広治をはじめ多くのアスリートを指導してきた。
著者は世界の強豪に比べれば決して恵まれた体格ではなかったと言うが、太い骨格に大きな手を備えた自身の肉体の特徴に「ネアンデルタール人」の面影を感じていたという。
そんな「ネアンデルタール人」の末裔(まつえい)として、今も指導する選手を通じ、会心の一投を追究する男が明かす競技人生とスポーツ哲学。自他の才能を引き出す、究極のコーチングとは? 室伏広治との特別対談も収録。