
2001年3月23日に発売された夏川りみが歌う『涙そうそう』。発売後ロングセラーを続け100万枚を突破し、2002年末には夏川がNHK紅白歌合戦に初出場を果たす。
『涙そうそう』誕生のキッカケは森山良子との出会い
BEGINは、沖縄県石垣島出身の幼馴染みの同級生が組んだバンドで、東京で結成された当初はロックを演奏していた。
それから1989年にTBS系のオーディション番組「イカすバンド天国」を経て、オリジナル曲『恋しくて』で1990年にデビューした。
やがて活動を続けるにしたがってブルースやカントリーに傾倒し、独特の味わいを感じさせる存在となっていった。そうした過程で自然に沖縄の島唄へと、表現の領域を広げていくことにもなる。
彼らの代表曲となる『涙そうそう』が誕生したのは、ライブ活動を通じて意気投合したベテランのシンガー・ソングライター、森山良子との出会いが発端だった。
森山にとって、沖縄との縁もまた、歌との出会いを通じて始まったものである。それは1969年にレコーディングされた反戦の歌、寺島尚彦が作詞作曲した『さとうきび畑』にまでさかのぼる。
「この曲は、私がデビューをして1年ほどが経った頃に、何度かステージをご一緒させていただいた寺島尚彦先生から『是非歌ってほしい』ということで、頂いた曲です。この歌では太平洋戦争の沖縄戦で父親を亡くした子供の悲しみがつづられています」
その当時の森山は、戦争というものを深く考える必要のない環境で育ったこともあって、この歌に込められた作者の切実な思いと、それを歌うことになった自分の意識との隔たりに、どうしても戸惑いを感じずにはいられなかったという。
「自分には歌えない」と思っていたにもかかわらず、1969年に発表したアルバム『カレッジ・フォーク・アルバムNo.2』に収録したのは、信頼していたレコード会社のディレクターに強く促されてのことだ。
その結果、『さとうきび畑』は作品の評価も高く、リスナーからの反応もよかったので、本人の思いに反してコンサートで歌ってほしいというリクエストが増えていく。
だが、森山は自分に歌う資格があるのかと自問自答し、しっかりと歌える力はまだないとの判断から、ついに歌うことをやめてしまう。
そんな森山に転機が訪れたのは1991年。
長期にわたって封印されていた自分の気持ちが歌詞に
中東で発生した湾岸戦争のニュースを目にして、再び『さとうきび畑』を歌おうと心に決めたというのだ。
そのようにして、沖縄とあらためてしっかり向き合うようになった森山は、BEGINに沖縄テイストの曲づくりを依頼した。
まもなくして作詞をしてほしいと届けられた1本のデモテープには、「涙(なだ)そうそう」というタイトルだけが書いてあった。
そのタイトルが意味しているのは、涙がポロポロこぼれ落ちることだと知って、森山はなぜか23歳の若さで急死した兄を思い出したという。
幼い頃から仲がよくて頼りにしていた兄が、何の前触れもなく急性心不全で亡くなったのは1970年のことだった。
そのときに兄を思って一気に歌詞を書き上げることができたのは、長期にわたって封印されていた自分の気持ちが、「涙そうそう」という聞き慣れない沖縄の言葉と、BEGINのゆったりしたメロディーによって触発されたからであろう。
「それまで言葉にできなかった感情を、メロディーの力を借りて歌詞に書き上げることができました。とりとめのない思いを言葉にできたため、心の中が整理されたんです。そして、もしこの曲に出会わなかったら、いつまでも誰にも言えない兄への思いを抱えていたかもしれません。出会いとは偶然ではなく、運命が時を選んで、会うべき人に会わせてくれているんだと思えました」
こうして森山良子のアルバム『TIME IS LONELY』(1998年)に収録された『涙そうそう』が、広く一般にまで知られるきっかけは、2000年に開催された沖縄サミットのテレビ中継だった。
その番組を偶然に見ていたのは、後に『涙そうそう』をミリオンヒットさせる歌い手だった。
ただし、星美里はヒットに恵まれなかったために、いったん引退して沖縄に戻り、1999年に「夏川りみ」と名前を変えて再デビューしたばかりだった。
文/佐藤剛 編集/TAP the POP
引用
「インタビュー 情熱と挑戦の先に 69歳で年100本のステージ 歌手・森山良子の覚悟とは」(カンパネラ/2017年3月9日)