
2026年で誕生100周年を迎える明治神宮野球場。ここではプロ野球や学生野球の数々の名シーンが繰り広げられた。
氏が著した『神宮球場100年物語』(朝日新聞出版)より一部抜粋、再構成して熱戦の模様をお届けする。
伝説の「早慶6連戦」とは?
神宮球場の歴史を振り返る書籍や資料を整理していると、しばしば「早慶6連戦」についての記述が飛び込んでくる。60年11月6日から12日まで、1週間にわたって早稲田大学と慶應大学の間で行われた、熾烈な優勝決定戦である。
この年の東京六大学秋季リーグは異様な盛り上がりを見せた。
早稲田、慶應とも順調に白星を重ね、最後の直接対決までに、慶應は8勝2敗で勝ち点は4。
対する早稲田は7勝3敗、勝ち点3で両校は激突する。慶應が連勝、もしくは2勝1敗で勝ち点を挙げれば、文句なしの完全優勝が決まる。一方の早稲田は連勝すれば逆転優勝となるものの、2勝1敗では両校の勝ち星が9勝4敗、勝ち点4で並び、優勝決定戦にもつれ込む。
早稲田大学野球部主将・徳武定之(定祐)は期する思いを胸に神宮球場のグラウンドに立っていた。学生生活の集大成として、そして有終の美を飾るべく「最後の決戦」に挑んでいた。本人が当時を述懐する。
「早稲田大学というのは質実剛健だから、ガムシャラに泥臭く、粘り強く戦っていく野球。よく慶應と比較されるけれど、その点は好対照だと思いますよ。だって、慶應はスマートだから。もちろん、闘争心は胸に秘めているんだけど、どこか紳士的なところがある。だけど、僕の場合はバッターボックスに入るときでも、相手投手を威圧するような態度でした。キャプテンとしても、言葉ではなくプレーで引っ張っていくタイプだったので、そういう点では早稲田のチームカラーを体現した選手だったと思いますよ」
両軍死力を尽くしての大激戦
6万5000人の大観衆が集った11月6日の初戦は早稲田が勝利し、翌7日は慶應が快勝した。そして、この試合に慶應が勝てば優勝が決まる3回戦は、0対3で慶應が敗れた。これで対戦成績は早稲田の2勝1敗、勝ち点1となり、両校は同率で首位に立った。
早大主将の徳武が述懐する。
「選手としては死力を尽くしているから、もうクタクタだよ。当時の早稲田の監督は石井連藏だよ。まだ28歳の若い監督だったから、本当に厳しい練習を課されたものだよ。こうした中で、生きるか死ぬかの試合をしてきた。
試合は翌9日の優勝決定戦に持ち越されることが決まった。
この瞬間こそ、本当の意味での「伝説の幕開け」だったのかもしれない。
第4戦の優勝決定戦、第5戦の優勝決定再試合と引き分けが続いた。
早慶ともに、「あと一本」というところで、決定打が出なかった。特に早稲田の主将だった徳武は、この早慶戦ではすべてにおいて精彩を欠いていた。
第1戦……4打数0安打
第2戦……3打数0安打
第3戦……2打数0安打1打点
第4戦……4打数1安打
第5戦……4打数0安打
ここまでの5試合にフル出場して、17打数1安打。闘志をむき出しにした全力プレーが持ち味である徳武に、このとき何が起こっていたのか? 本人が述懐する。
「第5戦の試合後、石井監督に呼ばれたんだよ。もう、見るに見かねたのだろうね。
伝説の激闘、その結末……
まだドラフト会議が誕生する前の話である。自らの進路は自分で決めることができた。
監督の部屋に行くと、「そろそろハッキリと決めたらどうだ」と諭された。石井もまた悩める主将の状態に頭を痛めていた。徳武が続ける。
「監督の言葉を聞いて腹が決まった。“国鉄スワローズに入団します”って言ったんだよ。元々は本拠地が東京で、試合に出られる球団が希望だった。そうなると、巨人も候補に入るけど、ここには長嶋さんがいる。球団からは“長嶋をショートにコンバートする”という話もあったけど、そんなことはあり得ないよな。
ようやく、進路は確定した。石井監督は、「そうかわかった。では、明日から頑張れ」とひと言だけ言葉をかけたという。この晩、徳武は久しぶりに熟睡することができた。
こうして迎えた11月12日、優勝決定再々試合、実に6連戦目である。
神宮球場には6万5000人の大観衆が詰めかける。「立錐の余地もないほどだった」と、この試合を観戦した人々は、後年まで語っている。さらにこの日の試合は、NHK以外の民放4局も中継を決めた。
この日の神宮球場は、日本国中が注目する一大イベントの晴れ舞台となったのである。
2回表に、早稲田の徳武がヒットを放つと、一死一、二塁の場面で七番・所正美の三塁打で2点を先制。
早稲田の安藤元博は5回裏に1点を失うものの、6連戦中5回目の完投劇。見事に勝利投手となった。前夜に国鉄スワローズ入りを決めた徳武は猛打賞の活躍を見せた。
6試合で本塁刺殺が実に5回もあった。まさに、両校の意地とプライドが正面からぶつかり合う熱戦は日本中の注目を集めると同時に、令和の現在まで語り継がれる伝説の名勝負となったのである。
「6連戦期間、ずっと不振だったけど、最後の試合で3本のヒットを放つことができた。あの日、きちんと打つことができて、慶應に勝つことができた。これがもしも逆の結果になっていたとしたら、オレの人生もまったく違うものになっていただろうね。第6戦の試合後、オレはすぐにアンダーシャツを着替えた。主将として天皇杯をいただくのに、汚れたままの姿では失礼に当たるから。身を清めて天皇杯をいただく。
『神宮球場100年物語』(朝日新聞出版)
長谷川晶一