今、世界を駆けるカイヤが明かす日本への憧れ「“初恋”と言ってもいいかもしれない」お転婆な田舎娘がスーパーモデルになるまで
今、世界を駆けるカイヤが明かす日本への憧れ「“初恋”と言ってもいいかもしれない」お転婆な田舎娘がスーパーモデルになるまで

6年もの月日をかけた離婚裁判が2023年に結審し、晴れて「独り身」になったカイヤさん。今は本業であるモデル業に重きを置きつつ、世界中を飛び回っているという。

日本ではタレントとしても活動する彼女だが、実はかなりドラマチックなバックボーンの持ち主であることは、あまり知られていない。その生い立ちと、日本への思い、今後の展望について聞いた。(前後編のうちの前編) 

モデルとして活躍するカイヤの人生譚 

「最近は『VOGUE』や『Harper's BAZAAR』の仕事でアフリカやオーストリアに行っていました。今までも何度か出演してきましたが、3月にはパリコレにも出演してきました。
2月にはニューヨークのファッションウィークに参加したのですが、とてもうれしいことがありました。タイムズスクエアにあるビルボードに、私の写真が大きく出たんですね。
今思い出しても感激して涙が出ちゃう」

カイヤさんは世界各国でモデルの仕事を続けているが、少女時代は米国イリノイ州のジャーマン・バレーという、ドイツからの移民によって形成された町で育った。イリノイ州といえば、大都市・シカゴを擁し、かつ民族構成が多様化した州としても知られている。

「私が子どものころのジャーマン・バレーは、人口が200人あまりの、本当に小さな田舎町でした。

父は厳格で、キリスト教の規律を大切にするドイツ系アメリカ人。エンジニアの仕事をしていて、町長も務めていました。

母はネイティブ・アメリカンのスー族出身で、努力の人。とても優秀な人で、19歳でアメリカ史上最年少の郵便局長になった女性でした。

のちに人道活動家としての功績が称えられて、大統領に表彰されたこともあるんですよ。

私は4人姉妹の3番目。みんな金髪で青い目ですが、なぜか私だけ、母譲りの背の高さと緑の目だったんですね」

このころから、家族の中でも異端の存在だったというカイヤさん。性格もしかりだったという。

「恥ずかしがり屋なところもあったけど、活発なことが大好きだった。ですから、姉妹の中では見た目も行動も目立つ存在でしたね。いろんなスポーツにも挑戦しましたよ。

お金を稼ぐことに興味を持ったのも早くて、8歳のときに早朝の新聞配達の仕事を始めました。物を作ることも大好きでしたから、12歳のころには、近所の人たちから依頼されて洋服を作ったり、修理をしていました」

敬虔なクリスチャンで、博愛主義者の両親は、人のために働き、施すことが当たり前という考えを持った家庭を築いた。

「食べ物に困っている人がいつ家に来てもいいように、ドアに鍵はかけないんです。一時期、身寄りのない子どもを6人も預かっていたこともありました。

母はさまざまな寄付はもちろんのこと、刑務所にも食べ物を差し入れしていました。

なので、世の中にはいろんな事情を抱えた人がいることを子どものころから見知ってきました。

そして、両親が愛情を与えると、その人たちは人生が変わった。愛を知ると、人生に希望が持てて仕事もうまくいく。それを身近に見てきたから、いま思うと私にとってはすごくいい教育でしたね」

そのため、「困っている人を見ると助けずにはいられない。ホームレスを見かけて、家に連れて帰ったこともある」と笑うカイヤさん。

日本文化への憧れ

一方で、娘たちには厳格な親だったと振り返る。

「私たち姉妹にはすごく厳しくて、派手な服は着てはいけないとか、ピアスはあけちゃいけないとか、生活態度についてもいろいろ言われました。

私は大好きだった学校の先生の影響で、もっともっと広い世界に出てみたいと思っていたから、窮屈に感じていたところもありましたね」

そんなカイヤさんが幼い頃に抱いた海外や日本への想い。そのきっかけについてこう話す。

「6歳のときの担任の先生が、毎週火曜日に世界の国々についての授業をしていたんです。とても大好きな時間でした。そこで、日本についての授業があって、とても心がときめいたんですね。“初恋”と言ってもいいかもしれない。

日本の神秘性、文化、寺院、美しい風景、侍…。幼いながらに『いつか世界を旅したい。そして、絶対に日本へ行く』と心に決めました。それから、日本に関する本を読んだりし始めたんです。

進級してからその決意を先生に伝えると『素敵ね。カイヤならきっとできるよ』と言ってくれました」

しかし、家族の反応は芳しいものではなかった。

「母は遠いところへ娘が一人で行くことが心配だったようです。姉たちには『カイヤが外国でやっていけるわけがない』と完全に否定されました。

父は戦争を経験していたので、そのネガティブなイメージにまだとらわれているところがあり、“日本”という単語そのものを嫌がりましたね」

しかし、家族の中で“異端者”だったカイヤさんは、将来の自分の夢を捻じ曲げることはしなかった。そんな彼女に、運命の転機が訪れる。

モデルの道を歩むきっかけ

「ハイスクールのときは、バスケットボールの選手だったんです。スカラシップ(特待生)で大学に入れそうだったので、その選考前に、母と一緒にシカゴまでバスケットボールシューズを買いに行ったんですね。

地元のジャーマン・バレーには、私が履けるサイズのシューズが売っていなかったので(笑)」

シカゴの街を母と歩いていたとき、一人の女性が声をかけてきた。アイリーン・フォード。世界中にスーパーモデルブームを巻き起こした、「フォード・モデル・エージェンジー」の伝説的な創設者である。

「田舎娘の私は、アイリーンなんてもちろん知らなかったの。突然『モデルになりませんか』と言われて、隣にいた母はびっくりして『この子は恥ずかしがり屋だから絶対無理です!』と言い続けました。

それでも、連絡先を交換して、家に帰って父に話したら、父も反対し『大学に行きなさい』と言いました。

でも私は『これはチャンスだ』と思ったんです。当時のボーイフレンドに相談したら、『人生は一度きりなんだからやらないと後悔するよ』と後押ししてくれて。

それから家族を説得して、大学進学をやめ、アイリーンの家に住まわせてもらいながらモデルの仕事をすることにしました」

モデル会社の経営直々のスカウトという、逸材ぶり。敏腕プロデューサーの目に狂いはなく、ビジネスの段取りも鮮やかだった。事務所と契約後、アイリーンはさっそく、2週間後のイタリア版『VOGUE』での仕事を決めてきたという。

ほどなく売れっ子モデルになったカイヤさん。

人口200人の小さな町で育った少女は、地元を出てたった1年で、世界各国を回ることになる。

そんな折、ついに憧れの地、日本へのアプローチが叶うことになるが――。後編では、日本での紆余曲折と現在地についてうかがう。

【プロフィール】
カイヤ。モデル、タレント。5月25日生まれ、アメリカ出身。テレビ・映画・世界各国でモデル業のほか、カウンセラー・モチベーションコーチとしても活動中。

撮影/廣瀬靖士
取材・文/木原みぎわ

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