
ヨハネスブルグで順調な生活を送っていたイーロン・マスクの家族たち。しかし、コンピューターに興味を持った17歳のイーロンはカナダに移住したいと母に訴え……。
イーロンの母、メイ・マスクが自身の人生哲学をつづった『72歳、今日が人生最高の日』より一部抜粋、再編集してお届けする。〈全3回のうち2回目〉
イーロンがカナダに行きたがったワケ
人生は予想がつかず、驚きに満ちている。ときには賭けに出て、大きな変化を起こすことも必要。
41歳のとき、ヨハネスブルグでの栄養士の仕事は順調で、快適な家も持っていた。ついに、安心を手に入れたと思っていた。
そんななか、イーロンがカナダへ行きたがった。コンピュータへの興味を追求するには、北米がふさわしいと感じていたのだ。イーロンはわたしに市民権の回復を申請してほしいと言ってきた。そうすれば、3人の子どもたち全員が市民権を得られるからだ。
トスカもカナダのほうが楽しそうだと考え、イーロンに賛成した。トスカは13歳のとき、カナダへ移住することを考えて、アリアンス・フランセーズでフランス語を学びたがった。何かの本でフランス語はカナダの第二公用語だと知ったからだ。
わたしもフランス語の授業を受けていた。フランス語は高校まで勉強していたので、上級クラス。アリアンス・フランセーズではクラスごとに出し物を披露することになっており、ある日、クラスメートたちが言った。「オペラ歌手がいるわね」。でも、誰にもそんな才能はない。
わたしは言った。「娘ならできるわ!」
「でも、娘さんは初級クラスでしょ。フランス語が話せないじゃない」
「なんとかなるわよ」
オペラ用の金色のドレスを借りると、トスカはフランス語で演技した。まだ若く、フランス語もほとんど話せなかったけれど、この難題に挑戦して、みごとに演じてみせた。
しかも、誰もトスカだとは気づかなかった! 歌手を雇うなんてずるいと言う人までいた。それがまだ13歳のトスカだったとあとから知って、驚いていた。
それでもトスカはフランス語が堪能でないことを不安に思っていた。
自力でいとこを探し暮らすことに
すべての準備が整うには、とても時間がかかった。ようやくパスポートが届くと、その3週間後、イーロンはカナダへ発った。17歳のときだ。
わたしはいくつかの連絡先と、2000ドルのトラベラーズチェックを持たせて、イーロンを送り出した。20年前に初めて出場した美人コンテストで勝ち取った賞金100ランドを元手にして増やしたお金だ。賞金で株を買うべきだと友人に勧められたのだ。ところが、1969年に株価が下落して100ランドが10ランドまで下がった。
その後、イーロンが生まれたので彼の名前で口座を開き、そのまま忘れていた。1989年に口座があるのを思い出して見てみると、2000ドルになっていた。このお金でイーロンも数週間はやっていけるだろう。
わたしはカナダの親族に手紙を書いてイーロンが行くことを知らせたけれど、手紙よりイーロンのほうが先に着いた。
イーロンはモントリオールに着いて、わたしのおじに電話をかけたけれど出なかった。そこで、わたしにコレクトコールで電話をかけてきた。「どうしたらいい?」
わたしは、YMCA(キリスト教青年会)を探すよう伝えた。そのあとイーロンはトロントへ行ってもうひとりのおじを探したが、やはり見つからなかった。そこでバスでサスカチュワンへ行き、わたしのいとこを探したらしい。
イーロンはいとこの家の玄関先にとつぜん現れて言った。「こんにちは。ぼくはメイの息子です」。この家でイーロンは18歳の誕生日を迎えることになる。
そのころ、15歳になろうとしていたトスカが言った。「そろそろイーロンのところへ行ったほうがいいと思う。
けれども、そのころのわたしは博士号を取得するためにケープタウン大学に通っていた。
「ここで博士号を取るから、そのあとで行きましょう」
トスカは言った。「ママたちが行かないなら、ひとりでカナダへ行く。イーロンに面倒を見てもらうわ」
わたしはしぶしぶイーロンの様子を見に行くことにした。移住するつもりはなかったけれど、イーロンはすでにカナダにいる。キンバルは高校を卒業したら行きたいと言っているし、トスカの決意は固そうだ。さすがに、ふたりだけで行かせるわけにはいかない。何はともあれ、とりあえず様子を見てこよう。
わたしは、カナダに行っているあいだに仕事を引き受けてくれる栄養士をふたり見つけた。そのふたりはわたしの家に住んで、トスカの面倒を見てくれることになった。
家と車と家具を売り払ったことになぜ怒らなかったのか
カナダに着くと、わたしはイーロンと一緒に受け入れてくれる大学を探すために5つの州の大学をまわった。モントリオール大学以外は、どこも受け入れを表明してくれた。モントリオールで研究するには、わたしのフランス語では難しいようだった。
わたしはトロント大学に関心を持った。研究員として週に10時間働けばよく、それなら栄養士としての開業も、研究も、モデルの仕事もできるからだ。それに、トロントはカナダではモデル業の中心地だ。研究員になれば、子どもたちは学費なしで学べる。
それから、五大都市のすべてのモデル事務所を訪れた。40代初めだったので、どんな反応をされるかわからなかった。けれども、どの事務所も受け入れてくれた。年配のモデルを探していたのだ。
3週間後にヨハネスブルグへ戻ると、トスカはすでに家と家具と車を売り払っていた。身長177センチで15歳の少女は、自分がまだ子どもだということも、すべてを売る許可など得ていないこともまるで気にしていなかった。家のものはすべて消えていた。
あとはわたしがサインするだけ。
トスカが家と車と家具を売り払ったことになぜ怒らなかったのかと、多くの人にきかれる。だって、トスカの言い分はもっともだったから。わたしたちはいずれカナダに移住しようと話し合っていた。トスカはできるだけ早くそれを実現したかっただけ。たとえ、予想もつかないことをしたとしても、その言い分がもっともなら受け入れるしかない。
カナダには新しい可能性があり、移住は家族にとってよい転機となった。わたしにとってヨハネスブルグでの生活は絶好調で幸せだったけれど、子どもたちはアメリカ大陸に未来を見出した。カナダでならスタートが切れる。
そしてもうひとつ言えるのは、20年来の地獄だった前夫のことをもう二度と恐れずにすむということだった。おびえることなく生きられるのは、なんとすばらしいことだろう。この移住が自分と家族にとってよいことかどうかわからなくても、いつだって戻れる。わたしはけっして戻らなかったけれど。
前進すべきときだと思うなら、賭けに出て、腰を落ち着けるために3年は懸命にがんばること。生活がよくならず幸せだと思えなかったら、もとの環境に戻ればいいのだから。
#3 に続く
文/メイ・マスク 写真/Shutterstock
72歳、今日が人生最高の日
メイ・マスク (著)、寺尾 まち子 (翻訳)、三瓶 稀世 (翻訳)
「爽やかな風が吹き抜けるような70年の軌跡」 齋藤薫さん(美容ジャーナリスト)
「モデルとして、ひとりの女性として、ずっと憧れてきた人からのアドバイスがつまってる」 カーリー・クロスさん(モデル)
「人生は予想できないことの連続だけど、乗り越えて楽しむことができる、と教えてくれる」
ダイアン・フォン・ファステンバーグさん(デザイナー)
31歳で夫のDVから逃れて離婚、シングルマザーとなって40年。メイ・マスクは3人の子どもを育てるために、必死で働いてきた。モデル歴50年以上。通販カタログや母親役など地味な仕事を淡々とこなしてきた。モデル事務所から干されて仕事がなかった時期に、髪を染めるのをやめて白髪のままでいたら、自然体で暮らしを楽しむ姿が、キャスティングディレクターの目にとまり大きな仕事を依頼され始めた。
南アフリカ共和国の大学で勉強した栄養学は、カナダ、アメリカと引っ越す度に現地での資格が必要で勉強をし直した。プロとして他人の食生活をカウンセリングする一方で、自身はストレスでジャンクフードを食べ続け、体重が90キロ以上になった。その後も30キロの増減を繰り返したが、40代にはいり、『お腹がすいたときに、体にいいものを適量食べる』という王道のルールを守り続けて、今の体型に落ち着いた。
長男のイーロン・マスクを含む3人の子どもたちは、子どものころに興味を持ったことを尊重し、口を出さず見守り続けた結果、3人とも自分で学び、会社を興し、夢を実現させた。
現在、72歳のメイはSNSを活用して仕事の幅を広げて続け「今がいちばん楽しい」と断言する。「人生は何度でもやり直せる。あきらめずに挑戦し続ければ、必ず幸せになれる」
(原題:A Woman Makes a Plan)