61歳でカップヌードルを世界に送り出した日清の創業者は47歳で全財産を失っていた…「なあに、なくしたのは財産だけじゃないか」の精神から学ぶこと
61歳でカップヌードルを世界に送り出した日清の創業者は47歳で全財産を失っていた…「なあに、なくしたのは財産だけじゃないか」の精神から学ぶこと

1958年に世界で初めてインスタントラーメンを開発したとされる、日清の創業者・安藤百福。しかし、その大成功の裏には思いがけない転落人生があった。

そしてその転落から、安藤はいかにして立ち上がったのか。

 

『大器晩成列伝 遅咲きの人生には共通点があった!』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)より、一部を抜粋・再構成してお届けする。

思わぬ転落! 全財産を失う

戦後、百福は食品産業へと乗り出します。といっても、このときはまだラーメンをつくろうとはしていません。

配給制でろくに食料は届いておらず、空腹でバタバタと人が倒れていく状況を見て、百福は「栄養失調で亡くなる人が多い。ここをまずなんとかしなければ……」と考えました。そこで専門家の手を借りながら、栄養剤の開発に取り組むことにしたのです。

当初は、エキスをとるために食用カエルを用いて試行錯誤しましたが断念。しかし、失敗しても諦めないのが、百福スピリッツです。こんな言葉も残しました。

「失敗するとすぐに仕事を投げ出してしまうのは、泥棒に追い銭をやるのと同じだ」

百福は食用カエルから牛や豚のエキスに変えて、タンパク栄養剤「ビセイクル」を完成させます。ビセイクルは厚生省にも品質が認められ、同省が管理する病院でも使用されることになりました。

百福の食品産業が順調に売上を伸ばしていくと、従業員もどんどん増えていきます。

面倒見がよい百福の家には、多くの若者が寝泊りするようになり、従業員たちと公私を共にしました。

しかし、ここから百福の人生は突如として暗転します。何度も頼まれたので情にほだされて、信用組合の理事長を渋々引き受けたところ、信用組合はあえなく倒産。理事長として社会的な責任を問われることになってしまったのです。

百福は築き上げてきた財産を、47歳でほぼ全部失うことになりました。

インスタントラーメンの開発に成功

さすがの百福も落ち込み、自宅にこもっていました。ところが、ある日を境に、自宅の裏に作業場をつくっては何かを研究しはじめます。

なあに、なくしたのは財産だけじゃないか─。時間が百福の心の傷を癒し、再び新しい事業へと駆り立てたのです。

その事業とは、ラーメンです。

百福の頭には戦後、ラーメンを食べるために行列をつくる人々の姿が、いまだにこびりついていました。

その光景を目にしてから8年の歳月が経ち、すでに落ちるところまで落ちました。失うものがない強さが、本当に自分がしたいことへと突き動かしたのかもしれません。

百福はすべての事業から手を引いて、ラーメン1本に絞ることを決断。朝は5時から、夜は1時や2時まで、ラーメンづくりに取り組みはじめます。

百福は5つの条件を満たしたラーメンが開発できれば、人々に浸透するに違いない、と考えました。

それは「味がおいしい」「保存性がある」「簡単に調理できる」「値段が安い」「衛生的で安全」の5つです。

百福は中古の製麺機を購入。中華麺の材料を自転車で研修室まで運んでは、いろんな添加物を加えながら開発に没頭しました。

最大の難関となったのが、「保存性」「簡単な調理」のハードルをどう越えるかです。なんとか麺を保存できないかとさまざまな方法を試してみました。天日干し、燻製、塩漬け……しかし、どの方法もすぐに元へと戻すことができません。

水を吸うと同時に柔らかくなる「高野豆腐」にも目をつけました。しかし、高野豆腐は凍らせて氷の結晶をつくることによって、豆腐に小さな穴ができて、水にひたすと元通りになる仕組みです。その多孔質がなせる業でしたが、麺に穴を開けることなどできるわけがありません。

「保存性が保たれた状態の麺から、手軽な調理を加えただけで、ラーメンになるようにするには、どうするべきなのか……」壁にぶつかった百福。突破口が見つからないまま、時が過ぎました。

しかし、ある日のこと。妻が「さて、今夜は天ぷらにしましょう」と夕食の支度をしはじめます。その様子をぼんやり眺めていて、百福ははっとしました。

「金網に並んだ天ぷらには、穴が開いている!」

天ぷらは熱い油のなかに入れることで、衣が水をはじき、穴をつくり出します。ならば、麺も熱い油で揚げれば穴ができ、そこから湯を注げば、元通りになるのではないだろうか……。

百福がすぐさま、麺を油に入れると、やはり水分が高温の油ではじき出されました。そうして揚げた麺にお湯を注いでみると、水分が抜けた穴からお湯が吸収され麺全体に浸透し、見事にもとのやわらかい状態に戻ったのです。

「発明や発見には、立派な設備や資金はいらない」

そんな言葉を残しているように、何気ない家庭の風景から、百福は思わぬ打開のヒントをつかんだのです。

海外進出、知られざる試行錯誤

48歳にしてインスタントラーメンの開発にこぎつけた百福。

当初は問屋から「こんなけったいなもの、どないもなりません」と怪訝な顔で対応をされたこともあります。今まで見たこともない商品ですから、無理もありません。



しかし、消費者の人気に後押しされると、やがて注文が殺到します。社員はたちまち800人を超え、「サンシー殖産」から「日清食品」へと社名を変えました。

50代を目前にして大きな仕事を成し遂げたのだから、しばらくはゆっくりして、また次の一手を考えるか……。そう考えてもおかしくはありません。しかし、百福は違いました。

なにしろ、一度はどん底を経験した身です。苦労したこれまでの日々が百福をさらなる行動へと駆り立てます。

販路を拡大するべく、百福はこんなふうに考えました。

「これだけ国内でヒットしたものが、海外で受け入れられないはずがない」

国内で他社の類似品が出はじめたこともあり、いち早く国外に目を向けたのです。とはいえ、単純に海外へと販路を拡大できるわけではありません。なにしろ、西洋人はどんぶりと箸で食事をしません。このハードルを越えるには、商品そのものを見直す必要がありました。

考えていても仕方がないと、すぐに行動する百福らしく動きはじめます。現地に飛び、アメリカやヨーロッパを視察しながら、なんとか解決の糸口を探りました。56歳のときのことです。

滞在中、アメリカ西海岸にあるスーパーを訪れたときのこと。百福がいつものように、インスタントラーメンの調理を実演しようとしましたが、やはりどんぶりがありませんでした。

すると「代わりになるものを」と、スーパーの人が紙コップを持ってきてくれました。そこにチキンラーメンを2つ、3つに折って入れてみたところ、その味は大評判となります。

その場ですぐさま販売契約が結ばれました。しかし、百福は商談がまとまった喜びよりも、まったく違うことに気をとられていました。

「紙コップにはこういう使い方があるのか。新しい即席めんは、紙コップのような容器に入れてみてはどうだろう」

ここから、またもや百福の研究の日々が始まったのです。

疲労で「天地がさかさま」に… … ひらめいたアイデア

コップ型の容器に入れるとして材質は何がよいのか。熱湯を入れても大丈夫なもので、かつ手に持っても熱くなく、重くないものでなければなりません。



そこで、熱の伝わりにくい発泡スチロールが、材質に選ばれました。

発泡スチロールにも改良が加えられました。割れ目ができたり、破れたりしては話になりません。またどうしても臭いがついてしまうことから、容器製造時に熱風で臭いをとる方法も考え出しました。

次に発泡スチロールの容器をどうやって密閉するのか。これについては、紙でアルミ箔をコーティングしている機内食からヒントを得ています。

そのほかにも、片手で持ちやすく、かつ滑りにくい容器のデザイン案をいくつも出したり、中に入れる麺の形を全体に火が通るように工夫したりするなど、いくつものハードルを百福は一つずつ乗り越えていきます。

しかし、最後のステップが、百福の頭を最も悩ませました。

「麺を容器の中に入れるには、どうすればよいだろうか……」

容器より小さい塊にして、単純に容器に落として入れると、落下の衝撃で麺が傷んでしまいます。

そこで百福が考え出したのが「容器の中で宙吊りにする」という方法です。それならば麺がくずれることもなく、さらに容器を補強することにもなり、運搬にも堪えられます。

ところが、上に広がった容器で麺を宙吊りにするという発想は、実現が困難でした。

さすがにこればかりはできない……とさじを投げる社員や、容器の形を変えることを提案する者もいました。

そんななか、決して諦めなかった百福は、あるとき、布団の中で天地がさかさまになるという錯覚に陥りました。疲れのせいかな……と思った瞬間、ひらめきます。

「天地の逆転……。そうだ、麺を逆さにおいて、容器を上からかぶせる方法がある!」

布団から飛び起きた百福。これまではずっと容器に麺を入れるという発想だったけれども、麺に容器をかぶせればいいんじゃないか─。

試しに、くるっと1回転させて、容器をゆすると麺が落ち着きました。宙吊りに成功したのです。

百福のこのアイデアは「中間保持」と呼ばれ、現在のカップ麺はすべてこのやり方でつくられています。

ついにカップラーメンの開発に成功

1971年、ついに新商品「カップヌードル」が誕生。「食器を兼ねるカップ麺」はたちまち話題を呼び、1日で数万食が完売しました。

アメリカに工場をつくると、大量に流通。その後、ブラジル、中国、インド、オランダ、インドネシア、ドイツ、タイ、フィリピン、カナダと広がっていきました。

カップ麺はまさしく「日本発の世界食」として、ワールドワイドに普及することになったのです。

カップラーメンの開発に成功したのは、百福が61歳のときのこと。つまり、百福の50代は、海外進出のための挑戦にほぼ注がれたと言ってよいでしょう。

グローバル化によって海外流通のハードルが下がった今こそ、百福の生き方から学ぶことは多くあります。

文/真山知幸 

『大器晩成列伝 遅咲きの人生には共通点があった!』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)

真山知幸 (著)
61歳でカップヌードルを世界に送り出した日清の創業者は47歳で全財産を失っていた…「なあに、なくしたのは財産だけじゃないか」の精神から学ぶこと
『大器晩成列伝 遅咲きの人生には共通点があった!』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)
2025/3/211,870円(税込)336ページISBN: 978-4799331330

渋沢栄一、マルクス、安藤百福、ファーブル、……
あの偉人はそのとき、
どんな転機を迎えたのか


「遅咲き」の人生には共通点があった!
古今東西 人生の先輩に学ぶ
折り返し地点を越えて挑戦する秘訣


後世で「偉人」と称された人のなかには、人生の後半で成功した「遅咲き」の人が少なくありません。
「遅咲き」とは単に「年齢を重ねたのちに成功した」ということだけではなく、「学生時代にはまるで期待されていなかったのに、世界を変えてしまった」ような人物のことも含まれるでしょう。本書で紹介したようなアインシュタイン、エジソン、山中伸弥さんは、まさにそのタイプの「遅咲き偉人」です。
本書は、いわゆる「大器晩成型」の偉人たちが、どのように中年期を過ごしたのかに注目しました。今まさに、多くの人が中年期に直面する「ミッドライフ・クライシス(中年期危機)」を、偉人たちはどう乗り越えたのでしょうか?(「はじめに」より)

編集部おすすめ