「おさげのいじめられっ子」からギャルサーのトップとなった、なちゅ…秋元康に見初められSDN48に加入もブログに誹謗中傷が寄せられ大号泣
「おさげのいじめられっ子」からギャルサーのトップとなった、なちゅ…秋元康に見初められSDN48に加入もブログに誹謗中傷が寄せられ大号泣

ギャルサーのトップ、女芸人、SDN48メンバー……と、さまざまなことに挑戦してきたなちゅさん(40)。現在は不動産業界で働いており、2019年には宅地建物取引士の資格を取得している。

 

幅広いキャリアを歩む一方で、「中学生時代にいじめを受け、自殺未遂をした」という過去も。そのとき、声をかけてくれたギャルの友だちが、なちゅの人生に大きな影響を与えたという。(前後編の前編)。 

中学でのいじめがつらくて風邪薬を大量に飲んで自殺未遂

中学校受験を経て、都内の某有名私立女子校の中等部に入学した元SDN48のなちゅ。「なちゅ=派手なギャル」のイメージが強いが、当時はおさげ髪に黒縁眼鏡をかけ、いわゆる「大人しい子」の見た目だった。 

「最初は3人の女子と仲良くしていたんですが、私だけがハブかれて、入学して半年後には彼女たちからのいじめに遭っていました。学校で無視されたり、嫌なことを言われたりするのはもちろん、自宅に手錠やナース服のコスプレなどが着払いで届くんです。

その子たちが私の名義で買ってたんですけど、陰湿な嫌がらせですよね。お母さんが業者に一つ一つ電話して謝っているのを見て、すごく苦しい気持ちになりました」

それでも続くいじめについに耐えられなくなり、「死にたい」と風邪薬を大量に飲み、救急車で運ばれたことも。不登校気味になったなちゅに声をかけてくれたのが、先生から「仲良くしてはいけない」と言われていたギャル集団の1人だった。

「ギャルの子たちは休み時間、クラスではなく、渡り廊下にたむろしていたんです。そんな様子を見て当時、ギャルにはこわいイメージがあったので、あまり仲良くしていませんでした。でもその中の一人が話しかけてきて、私を渡り廊下まで連れ出してくれたんです。



一緒に話をしていたら、『竹川さん(なちゅの本名)、おもしろいじゃん!』って言って、仲間に入れてくれて。そのときに『あれ? 私、ギャルのこと誤解してたのかも』って気づきました」

自分も彼女たちのような女の子になりたいと思ったなちゅ。ギャルになるためにメイクを研究したり、渋谷に出かけたりするようになった。

高校時代は毎日渋谷でパラパラの練習「300曲覚えた」

高校入学後には本格的なギャルとなり、毎日のように渋谷に通った。やることはもっぱら、プリクラの交換とパラパラの練習だ。

「ギャル友だちと集まって、ストイックにパラパラの練習をしていました。手の角度とか極めて300曲くらいは覚えましたね。もちろん、全く勉強はしなくなった(笑)」

ギャルが大好きで雑誌『egg』に憧れ、浜崎あゆみを神と崇めており、ほかにやりたいことは特になかったという高校時代。だが、3年生になると親からの期待もあり、一念発起して猛勉強を開始。髪を黒く染め、入試を乗り越え、4年制大学に進学することができた。ギャルサーに出会ったのもこの時期だ。

「カラオケでバイトしていたとき、一緒に働いていた女の子から『ギャルサーに入らない?』と声をかけてもらったんです。ギャルサーには、きれいめな白ギャルと派手な黒ギャルがいて、その子から勧誘されたのは白ギャルのほうでした。



でも私が好きだったのは、明るいメイクとファッション、元気な小麦色の肌でめっちゃ派手で強めな盛り黒ギャルでした。だから、そのお誘いは断って、黒ギャルのグループに入ることにしました」

ギャルサーの主な活動は、クラブでイベントを開催するために毎週ミーティングを開くことでしたが、実際には一年中遊んで、パラパラを踊っていたそう。なちゅは当時のことを「本当に楽しくて、一生渋谷でこのメンバーとギャルをやっていたかったと振り返る。

「最初は6~7人のグループだったんですが、私はすごい力を入れていて。ギャルの中には帰る場所がなかったり、家庭環境があまりよくなかったりする子も少なくないんです。

そういう子にメイクを教えたり、ギャルってこんなに楽しいんだよって伝えたりしていたら、どんどんメンバーが増えていって、私が代表になったときには最大50人くらいになっていました」

しかし、ギャルサーも大学のサークルと同じように大学3年生のときに引退することになる。

「ギャルサーの活動が楽しすぎて、その先の未来なんて考えられませんでした。後輩は自分の子どものように大切だったし、『ずっとここにいればいいじゃん!』って本気で思っていました」

2006年に大学を卒業したなちゅ。「この先どうしよう」。そう悩んで、考えて、出した結論がタレントになることだった。

 SDN48の最終オーディションで「天城越え」を歌い、秋元康に見初められた

「タレントを目指したのは、面白いことが好きだったから。青木さやかさんのような女性タレントになりたくて、ワタナベコメディスクール女性タレントコースの1期生を募集していることを知り、受講しました。一応卒業はして女ピン芸人にはなったんですが、全然売れなくて(笑)。

オーディションに行っては落ちて、というのを2年くらい繰り返しました」 

そして2009年、事務所のマネージャーから「SDN48のオーディションを受けないか」と声をかけられた。

「あきもってぃ(秋元康)プロデュースのアイドルグループということは知っていたのですが、私以外にも女芸人がたくさん受けていて、ちょっと変わったオーディションでした。とはいえ、『どうせまた落ちるんだろう……』と思いながら臨んだら、2次、3次とどんどん女芸人が落ちていくなか、最終オーディションに残った女芸人は私だけでした」

最終オーディションまで残っても、全く自信がなかったというなちゅ。どうせ落ちるならと、全力で立ち向かうことに決めた。

「『みなさーん!こんにちはー!』って、ギャルサーでよくやるような元気なMCで入ってきて、『天城越え』を歌いました。ド派手なギャルが演歌を歌うギャップがよかったのか、審査員席にいたあきもってぃが笑ってくれて。合格しなくてもこの場が盛り上がったからそれでいいやという気持ちだったんですが、当初用意されていなかった『MC枠』で、まさかの合格だったんです」

「大島優子が見たいのに! 消えろ!」という誹謗中傷

SDN48では歌やダンスをこなしながら、曲と曲の合間にあるトークでMCを務めた。しだいにSDN48以外にも、AKB48やSKE48のコンサートのMCも任されるようになり、AKBグループのさまざまなメンバーと交流を持つように。なちゅは「SDN48時代はギャルサーのときと同じくらいすっごく楽しかったし、みんな大好きだった」と笑顔で話す。 

「みんな王道のアイドルちゃんなので、私は新種の怪獣のような存在。でも握手会はあるんですよ(笑)。どうせファンは来ないだろうと思っていましたが、『あっちゃん(前田敦子)と仲良くしてくれてありがとう』『(篠田)麻里子さまがなちゅにメッセージがあるって』など、ほかのメンバーのファンが私のことを友だちのように接してくれて。

AKBグループ全体のファンに優しくしてもらっていましたね」

しかしSDN48の知名度が高まり、なちゅもバラエティ番組や音楽番組での露出が増えていくなかで、誹謗中傷も受けるようになった。あるときは、ブログに大量の誹謗中傷が寄せられ、メイクがすべてとれるほど大号泣してしまったこともあったという。

取材・文/橋本岬  撮影/石垣星児

なちゅ●1984年12月23日生まれ。アイドルグループSDN48として活動し、2012年3月31日卒業。フジテレビ「笑っていいとも!」「バイキング」、テレビ朝日「『ぷっ』すま」などに出演。2019年、宅地建物取引士を取得し不動産業界へ転職。株式会社マークス不動産で芸能人・著名人を顧客とした「御用達不動産」を立ち上げた。

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