
大阪市西成区の小学校付近で5月1日午後1時半過ぎ、下校中の児童7人に車で突っ込んで重軽傷を負わせ、殺人未遂で現行犯逮捕された矢沢勇希容疑者(28)=東京都東村山市=。都内の単身向け団地に住み、地の利のない大阪まで出向いての犯行の背景に何があるのか。
「メンタルが弱いところがあったんだと思います」
関東近郊の実家は、玄関先が綺麗に整えられた門構えの家が建ち並ぶ住宅地にあった。記者がインターフォンを鳴らすと「はい」と言う返事の数秒後、緊張した面持ちで矢沢容疑者の父親が出てきた。
「在宅で仕事中だった」という父親は、押し寄せた報道各社に対して1時間以上もの取材に応じた。以下はその一問一答。
――勇希容疑者は大阪で犯行を起こしていますが、大阪には何か縁があったのでしょうか。
いいえ。大阪には親戚などもいませんし、家族で旅行などで行ったこともないし、たぶん本人も大阪はもちろん西成には行ったこともないと思います。
――なぜ、今回のような事件を起こしてしまったと思いますか。
それが正直…なぜという感じです。勇希はもともと思い詰める性格でした。2024年元日の深夜に自殺未遂を起こしているんです。東村山署から連絡があり、勇希が住む部屋に駆けつけました。
その時、「なぜこんなことをしたんだ」と言うよりかは「実家に戻ってくるか」と言いました。すると彼は「いい、大丈夫だ」と。
大人の男だし「どうしようもなくなる前に言うんだぞ」とだけ伝えて、その後も彼が2度と自殺未遂をしないように私や妻も3ヶ月に1回くらいのペースで生存確認をしに行ってたんです。
――お父さんが最後に会ったのはいつなんですか。
ちゃんと話をしたのは去年の夏に2人で食事に行った時のことです。その時は自分から話すわけではなく、私の方からの「仕事はどうだ、順調か」とか「飯は食えているのか」などの問いに対し、「大丈夫」「うん」などとは言っていたし、笑顔も見られました。
最後に会ったのは去年の冬です。妻と2人で団地の前で待っていた時に会ったんですが、深く何か話せたわけではありませんでした。
――ではいったい、勇希容疑者は何を思い詰めていたと思いますか。
本当にそれがわからない。とにかく思春期の頃から心情をあまり語らない子でした。
小学校の時は、とても明るく活発でサッカーをやってクラブチームにも入っていましたし、私も妻も車出しなどをして親子の交流も十分にしていたと思う。
私は男親だからそういうのはあまりわからなかったけれど、メンタルが弱いところがあったんだと思います。
――幼少期はとても活発だったけど、高校からかげりが見えてきたということですか。
もともと生まれつき免疫不全の疾患があり、点滴で疾患を治療しながら暮らしていました。その治療のおかげかサッカーもずっと続けてこれた。
高校は自ら選んだ学校でしたが、地元の中学から1人しか行かないような進学校に進んだこともあり、もしかしたらそこで孤立したのかもしれない。その当時、家ではサッカーの顧問からいじられるのが嫌だとは話していました。
――例えば何かあったときに話ができる友達とか彼女の存在はあったのでしょうか。
小中のサッカー仲間とは仲よくしていたけど、高校以降の交友関係はあまり分かりません。大学や就職してからの交友関係もわからない。
彼女の存在は1度か2度ほど思春期の時に「彼女でもいないのか」と聞いたが何も答えなかった。だからそれ以降は何も聞いていませんでした。
「もしかしたらお金に困っていた節はあるかもしれません」
――あの団地に移り住んだのはいつのことなんですか。
大学を卒業し放射線技師として就職の決まった5年前のことです。職場の病院に近いからということで、自分で見つけて契約を結んだ部屋でした。もちろん保証人にもなっています。
――とはいえ報道では無職と報じられています。お父さんの認識では勇希容疑者は事故を起こすまで病院で勤務されていたということですか?
はい、そのように思っていました。でも、もしかしたらお金に困っていた節はあるかもしれません。
3年ほど前に大学に入る時に借りた奨学金の返済が滞っているという手紙が実家に届くようになりました。奨学金自体は数十万円を借りていて、月々の支払いも1万円もいかない程度でした。
そうした督促状が何度か届き、私の方から「お金を渡すからもう払ってしまうように」と言って数十万円渡しました。それで奨学金を払ったのかどうかもわかりませんし、他にも借金していた可能性もありますが、それはわかりません。
――自殺未遂を起こすまで、団地での単身生活でどのような変化があったのですか。
私たちが引っ越しを手伝って間もない頃は、部屋も綺麗に掃除をして身なりも整えていたのですが、2年ほど前からだんだんと無精髭を生やし、部屋も汚くなり痩せている様子がうかがえました。
妻は頻繁にLINEなどで連絡をしていたようでしたけど、それにも一言返事がある程度で「大丈夫だ」としか言わないような状態で、コミュニケーションは取れていませんでした。
――そういう変化が見られる中で「このままでは息子がどうにかなるのではないか」というような不安は感じなかったのですか。
もちろんそれは常に感じていました。だからこそ「もうどうにもならなくなる前に言いなさい」と言ってきた。
無理矢理家に引き戻すこともできたかもしれないが、本人は大人であるし尊重したつもりだった。それがこんな事件を起こすことになってしまったとは、お詫びしてもしきれません。
――「全てが嫌になったから、轢き殺そうと思って小学生の列に突っ込んだ」と供述している矢沢容疑者。父親は「普通に育てて、普通に大学を出て、普通に就職をして、それを喜んでいたのですが、こんな事をするなんて……。私はどうしたらいいのか、どうすればいいのでしょう?」そう言うと深々と頭を下げ、涙を流した。
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取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班