
人は誰しも無意識に他人と自分とを比較し、劣等感を抱いてしまう。また、人より優っているという優越性を感じたとしても、それが常に勝ち続けないといけないという緊張感をうみ、本来の人生の在り方を見失わせてしまう。
アドラー心理学の第一人者で哲学者の岸見一郎氏が、人と必要以上に比べず「普通に生きること」の有用性を記した新書『「普通」につけるくすり』(サンマーク出版)より一部抜粋、再構成して劣等感がいかに無用なものかを解説する。
劣等感はいらない
アドラーは誰でもある程度、劣等感を持っていると考えています。しかし、人生の課題に向き合うためには、劣等感をブレーキにしてはいけませんし、そもそも劣等感は必要ではありません。
アドラーは劣等感には2種類あると考えました。有用でない劣等感と、有用な劣等感です。まず、有用でない劣等感とは、他者と自分を比べたときに持つ劣等感です。アドラーは劣等感に並べて「優越性の追求」という言葉も使っています。優れようと努力するという意味です。
他者との競争に勝ち、他の人からよく思われたい人の優越性の追求は、「野心」という形で表れます。アドラーはこのような他の人よりも優れようとする形で表れる優越性の追求を「個人的な優越性の追求」(individual striving towards superiority)と言います。
仕事はただ自分のためにするのではないと考える人がいる一方で、自分が優秀であると認められることしか考えない人は、自分にしか関心を持っていません。
競争に勝っても不安な人
他者との競争に勝つという仕方で優越性を追求する人は、他者との競争に勝てば優越感を持てるでしょうが、競争に勝てたとしてもいつか負けるのではないかと戦々恐々としていなければならず、安閑としていられません。
個人的な優越性を追求する人は、自分の優位が脅かされることを恐れます。優越感は優越していると感じることで、実際に優れていることではありません。
今日、勉強でも仕事でも競争することは当然のことと思われていますが、競争に負けると、劣等感を持つことになり、勝ってもいつまでも勝ち続けることはできないと思うと、緊張した生き方となります。
さて、劣等感のもう一つは、有用な劣等感です。
アドラーは「劣等感から優越感へと流れる精神生活の流れの全体が無意識のうちに起こる」(『人はなぜ神経症になるのか』)という言い方をするのですが、劣等感を人生の課題から逃れる理由にするのではなく、「劣等感から優越感へと流れる」のであれば、劣等感は有用なものであるはずだと説きます。
アドラーは次のように言います。
「優越性の追求も劣等感も病気ではなく、健康で、努力と成長への正常な刺激である」(『人生の意味の心理学』)
劣等感を持っている人がそのことを病的だと感じることがあるとしても、優越性の追求を病気と見なす人はいないと思うのですが、本人がというより、あまりに優れようとしているのを見た他の人がそう感じるということでしょう。
健康な優越性の追求
ここでアドラーは、優越性の追求と劣等感について、努力し成長することへの刺激になる健康なものと、そうでないものに区別します。たとえ劣等感を持っていても、それを補償する努力をするのであれば、健康なものだと考えるのです。
私は50歳のときに心筋梗塞で倒れ入院したことがあります。今は早期離床といって、病気の治療をする一方で、できる限り早くリハビリを始めます。
心臓リハビリというプログラムに従って少しずつ歩く距離を増やしていくのですが、最初は病室の外には行かずに、ベッドから降りて立つところから始めました。
思うように歩けませんでしたが、日増しに歩ける距離が長くなりました。歩けない状態から歩けるようになりたいと思い、リハビリに励むことは、アドラーが言う健康な優越性の追求です。
しかし、私は歩けないことに劣等感を持っていたわけではありませんし、劣等感を克服するためにリハビリに励んだのでもありません。たしかに長い距離を歩けませんでしたが、病気のために「ただ」歩けないだけだったのです。
病気のために歩けなかった状態を脱して歩けるように努力をしました。しかし、アドラーが言うのとは違って、私は劣等感を克服するために優越性を追求したわけではありません。
病気になったら、治療を受けたりリハビリを受けたりして元の健康な状態に戻ろうとしますが、他の人と比較して自分が劣っていると感じる必要はありませんし、他の人よりも優れるためにリハビリの努力をするわけでもありません。
また、若くないことに劣等感を持つ人はいるでしょうが、歳を重ねることに誰もが必ず劣等感を持つわけではありません。いろいろなことができなくなるのは本当ですが、それをいうなら生まれたばかりの子どもは何もできません。
しかし、何もできないからといって、乳児や幼児は劣等感を持ちません。もっとも子どもの場合、もう少し大きくなると、大人から子ども扱いされて劣等感を持つことはありますが。
知らないことに劣等感を持つ必要はない
さらに、知らないことに劣等感を持つ人もいますが、そんな必要はありません。知らないことは、歩けないことと同様、ただ知らないだけで劣っている状態ではないからです。
幼い子どもが知らないことがたくさんあるからといって、その子どもが劣っているとは思わないでしょう。大人も何でも知っている人はいません。
私が伝えたいのは、「劣等感がなくても、健全な努力はできる」ということです。努力に、劣等感や他者より優れていたい優越性の追求は不要です。
知らないことがあれば学び、成績がよくなければ次回はいい成績を取れるように勉強することが有用な優越性の追求ですが、劣等感に結びつける必要はありません。知らないことがあるからといって劣等感を持つ必要はなく、知らないことがあれば知識を身につければいいだけのことです。
知らないことを知ろうとするのは、人間の根源的な欲求です。知識を身につけようとすることも、リハビリをして歩けるようになろうとすることも、劣っているから克服しなければならないと、劣等感を克服するために努力することではありません。
アドラーも、「劣等感があるから優越性を追求する」と言うと、劣等感が優越性の追求の原因と見ることになるので、後には劣等感についてあまり語らなくなりました。
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「普通」につけるくすり
岸見 一郎
「馬鹿につける薬はない」という言葉がありますが、
「普通につける薬」というのはあるのでしょうか?
本書は「自分は思っていたより普通かもしれない」「特別でないとしたら受け入れがたい」そんな不安を覚えた、ある青年から寄せられた悩みと向き合う中で生まれました。
「特別でなければいけない」という不安の根底には、常に他者との比較があります。
どうすれば、他者との比較から自由になり、自信を持ち、幸福に生きることができるのか。
本書では、「特別になろうとしないが、同じでもない」生き方を探ります。
人生から緊張を手放す思索を、はじめましょう。
【目次より】
第一章 なぜ特別でなければならないと思うようになったのか
第二章 特別でありたい人の脆い優越感
第三章 普通であることの意味
第四章 劣等感の克服
第五章 自信を持って仕事に取り組む
第六章 ありのままの自分から始める
第七章 自分の人生を生きる