
台風や線状降水帯がもたらす大雨の影響で毎年のように甚大な被害がもたらされている。もし自分が住んでいる地域に、何も準備をしていない段階で避難指示が出たら、あなたはすぐに避難ができるだろうか。
命を守るための気象庁の取り組みを書籍『天気予報はなぜ当たるようになったのか』より一部抜粋・再構成して紹介する。
避難すべき状況なのに避難しない理由
ここで、気象庁が防災気象情報の改善に取り組むにあたって、いつも念頭に置いていることについていくつか書いておきたいと思います。それは、市町村が避難情報の発令を躊躇する理由や住民が避難をしない理由に関係しています。
避難すべき状況なのに避難しない理由は、「前回の大雨のときに自分の家は大丈夫だった」、「まさかこんなことになるとは思わなかった」などさまざまです。
中にはまったく根拠なく自分は大丈夫だと思う人もいるようです。実は人には、危機に際して自分は大丈夫だと思ってしまう傾向が見られることがわかっています。専門家はこれを「正常化バイアス」とよんでいます。
また、「同調バイアス」といって、近所の人が避難していないと自分も避難しないというような傾向も見られます。このため、みんなで互いにほかの人たちの様子をうかがっているうちに手遅れになってしまうというようなことが起こります。
いずれにしても、避難などを躊躇するという傾向は、理由はともあれ、誰もが持っているもののようです。それに打ち克って、避難などの必要な対応を取ることができるよう、最大限工夫しなければなりません。
そのためには、危機であることを名指しで伝えること、行動のきっかけを具体的に決めておくこと、繰り返し訓練をすることなどが有効だとされています。
2010年に警報の対象範囲を市町村に絞っています。これについては、地域を絞り込むことで、警報が出たのに何もなかったという地域を減らすことができるという点も重要ではありますが、自分の市町村名を名指しして発表されることで、役場の防災担当者や住民が警報を自分ごととしてとらえ、適切な行動につながりやすくなるという効果も狙ったものでした。
避難情報の発令基準を明らかにすべきだとしてガイドラインを定めたことも、市町村が避難情報の発令を躊躇なくできるという効果を期待したものでした。
また、ワークショップなどを通じて、どの情報が発表されたら何をするかということを、市町村と気象台の職員で話し合い、訓練しておくことは、とても効果が高いと思います。
警戒レベルも住民の避難行動を促すスイッチの役割が期待できます。マイタイムラインも活用して、的確な避難で命を守ってほしいと思います。
「空振り」をおそれるな
逃げない理由として、ここでもうひとつ取り上げたいのは、災害が起こるという予想が外れるのではないかと思う心理です。
住民にとって、避難をするということは、雨の中、荷物を持って外を歩かなければならないし、知らない場所では寝られないし、予定通りのことができないしと、負担がかかります。
ですから、後から考えたら逃げなくても大丈夫だった、ということになると損をした気分になることはよくわかります。市町村の防災担当者にとっては、「避難指示」を出したのにその地区で何も被害がなかったら、あとで住民から批判の声が出るのではないかと心配する気持ちもあるでしょう。
こうしたことを背景に、災害対策においては、「空振りをおそれない」という言葉が次第に定着してきました。もちろん、「空振り」というのは、野球の用語になぞらえた言葉で、対策をとったけれど、それほどの被害は出なかったという意味です。
「空振り」になるかどうかは、事前には誰にもわかりません。
津波の話になりますが、岩手県釡石市に、2011年の東日本大震災を後世に伝えるための「津波記憶石」という石碑があります。そこには、地元の中学生の言葉として、「100回逃げて、100回来なくても、101回目も必ず逃げて」と書かれています。心に染みる言葉です。気象災害でもまったく同じです。
予測の正しさと「空振り」
「空振りをおそれない」というのは、気象庁にとっても大切な言葉です。あらかじめ決めた基準を満たす気象状況が予想される場合に躊躇なく情報を出すことはもちろんですが、この言葉は、気象庁にとってそれ以上の意味を持っています。
情報の利用者に対して、「空振り」をおそれずに、情報を信じて行動してくださいと言えるようにしておくためには、その情報が最善のものでなければなりません。
それは、予想が必ず当たるということではありませんが、予測技術が最高のもので、その技術を踏まえた最善の情報を発表しているということでなければなりません。さもなければ、「空振り」をおそれないという考え方も、認めてもらえなくなってしまいます。
気象庁では、予測技術を高めることに全力を挙げてきました。その結果、予測の精度は次第に上がってきています。
防災気象情報についても「空振り」という言葉が使われています。大雨や大雪、暴風など、災害が起こるような状況になると予測したけれど、実際にはそうならなかった場合のことです。
逆に、大雨などが発生すると予測しなかったのに、実際には発生したという場合には、「見逃し」といいます。
災害を起こすような大雨や暴風の発生などを見逃すと、住民のみなさんが大雨や暴風に不意打ちされることになり、大変危険です。このため、防災に関連した予測をするときに、「見逃し」をしたくはありません。
この気持ちはわかってもらいやすいと思います。ところが、予測の精度に限界があるので、できるだけ「見逃し」を減らそうとすると「空振り」が増えてしまいます。
たとえば、「流域雨量指数」は、値が大きいほど氾濫が起こる可能性が高いというものですが、ではその値がいくつになったら警報を発表するのかという基準を決めるのは簡単なことではありません。
基準を低く設定すると、少しでも可能性があれば警報を出すことになり、「見逃し」を減らすことはできます。ならばそれでいいではないかと思うかもしれませんが、そうすると、「空振り」が増えてしまうのです。
一方で、「空振り」を減らそうとして基準を上げると、今度は「見逃し」が増えてしまいます。このように、「空振り」と「見逃し」は、どちらかを減らそうとするともう片方が増えるという、トレードオフの関係にあるのです。
オオカミ少年を防ぐために
「空振り」が増えると、だんだんその情報では人が動いてくれなくなります。羊飼いの少年が、オオカミが来たと噓をつき続けて、とうとう本当にオオカミが来たときに誰も信じてくれなかったという話と同じです。これでは情報は用をなしません。
このため、防災気象情報の基準を決めるときには、過去の気象のデータと災害のデータを集めて整理し、それを使って基準と「空振り」と「見逃し」の関係を調べ、情報の役割に照らして最適なバランスになるよう基準を決めています。
オオカミ少年のようにならないためには、「空振り」も含めて、予測の検証を行い、その結果をきちんと説明するということも大切だと思います。
オオカミ少年の話では、そもそも少年が噓をついていたということですが、「空振り」になった情報は、もちろん噓ではなく、最大限の技術と知見を駆使した結果です。
また、災害が発生したか否かという目で見れば「空振り」に見えても、ほとんど紙一重で、本当に運よく災害にならなかっただけというケースも多いのです。
気象庁では、特別警報を発表したときには、そのときの実際の大雨などの状況と、発表した情報とを比べ、その結果を公表しています。また、警報などの情報を発表した後には、関係する自治体などに、そのときの状況などを説明するようにしています。
今後もこうした取り組みを強化し、関係機関、住民などに、気象庁が全力を尽くしていることをわかってもらうことが、地域の防災を進める上で大変重要だと思います。
写真はすべてイメージです 写真/Shutterstock
天気予報はなぜ当たるようになったのか
長谷川 直之
私たちの生活に欠かせない「天気予報」はどのように作られているのか?
気象の予測技術開発、国際協力業務、「線状降水帯」の情報発表などに取り組んできた
元気象庁長官の著者が、その舞台裏をわかりやすく解説する!
身近だけれど、実は知らないことだらけの「天気予報」のしくみがわかる!
2025年は、日本の気象業務のはじまりから150年の節目の年!
【内容紹介】
○「天気予報」の精度は上がり続けている! そのワケは?
○「降水短時間予報」は、ふたつのいいとこ取りの技術を使っている
○正しく知る「警戒レベル」と「防災気象情報」の意味
○手ごわい「線状降水帯」。
○「天気に国境はない」。気象データは無料・無制約で国際交換
○地球温暖化は本当かフェイクかと論じている場合ではない
○「AI予報」で気象庁はどうなる?
など