「お父さんに殺されろ」戦争が生んだ傷痍軍人の幽霊“カシマさん”はなぜ消えたのか…それでも子どもたちが無意識に学校で戦争怪談を語り続ける可能性
「お父さんに殺されろ」戦争が生んだ傷痍軍人の幽霊“カシマさん”はなぜ消えたのか…それでも子どもたちが無意識に学校で戦争怪談を語り続ける可能性

学校で子どもたちに語られる怪談も、少し昔には落ち武者や旧日本軍の兵士がよく登場していたが、現在では戦争にまつわる怪談は成立しがたいところまできてしまったという。著名な戦争怪談のひとつ「カシマさん」を事例にその背景を探る。

 

『よみがえる「学校の怪談」』より、一部抜粋・再構成してお届けする。

赤い服を着たおかっぱ少女「お父さんに殺されろ」

21世紀以降、兵士型カシマの報告はほぼ無くなった。2004年刊行の『カシマさんを追う』に事例がないのは仕方ないとして、現在でもカシマ調査を行っている青山葵からも新しい兵士型カシマの報告はない。

私が発見した中でも、明らかな兵士型カシマの怪談は一例だけ。雑誌『週刊実話別冊』2001年1月号「読むと後悔するイヤーな話」記事内の「カシマサンガヤッテクル」という話だ。概要を紹介する。
 
——昔、カシマさんという軍人が戦争中に左足を失い、本土に帰還してきた。しかし障害のため働けないカシマさんは、村中の人々から疎まれる存在となる。そんなカシマさんは、日本と日本人を憎みながら家に火を放ち、幼い娘とともに無理心中してしまう。

この話を聞いた人には、1日後か1週間後または1カ月後か1年後、夢の中にカシマさんの娘がやってくる。その赤い服を着たおかっぱの少女から「お父さんに殺されろ」と宣言される。

翌日、今度は赤い自転車に乗ったカシマさんが現われる。そして手に持ったノコギリでこちらの片足を切断し、持ち帰ってしまう。

つまり自転車は、被害者の血で赤く染まっているのだ。

逃れる方法はただ一つ。カシマさんの赤い自転車が目の前で止まり、チリンチリンとベルを鳴らしたところで、次の言葉をぶつけるしかない。

「仮面の「か」、死人の「し」、悪魔の「ま」のカシマさん」

この話を投稿者に教えてくれた友人は、左足を失っている。カシマさんの話を聞いた直後、左足に悪性腫瘍が見つかり、根元から切ってしまったからだという。

自転車に乗った兵士型カシマは他にない希少例だろう。細かい容姿については言及されていないが、焼死したからには全身包帯姿でもおかしくない。また幼い娘が「赤い服を着たおかっぱ」なのは、トイレの花子さんの典型イメージを彷彿とさせる。時期的にも、『花子さんがきた‼』の花子さんとトンカラトンから影響を受けた事例かもしれない。

いずれにせよ、これは従来のカシマ怪談よりずっと複雑な話となっている。

悪霊的存在が二人もいて、それぞれキャラクターが造形されている。カシマの出現は二段構えとなっており、しかも現実的被害はこの話を語った友人の病気のエピソードとなる。

ここまで複雑化した話は、もはや子どもたちの口承では語りづらくなってしまう。

逆に言えば、21世紀に入る前後にもなお兵士型カシマを語るには、従来の型から外れた複雑なバージョンでなくてはならなかったのだろう。トンカラトンが既に戦争怪談の変化型であるのに、そこへまたさらなる変化が加わっている。

怪談の複雑化はリアリティの喪失を招く

一つのバリエーションが長年にわたり語られるうち、様々な変化を遂げて複雑化することは、都市伝説によくある傾向だ。

例えば口裂け女は1979年の大流行によって、三姉妹である、ものすごいスピードで走る、赤い服を着た大女であるといった怪物的要素が付与されていった。しかしこうした複雑化はリアリティの喪失を招き、子どもたちが真剣に語り合う状況を阻害する。79年の大流行の後、口裂け女の実在を真剣に語る子どもなどいなくなったではないか。

「カシマサンガヤッテクル」は、そうした末期症状をよく表している物語だ。2001年1月号の雑誌掲載なので採話されたのはおそらく2000年あたりで、そこが兵士型カシマの終末期だったのだろう。女性型カシマはいまだ細々と語り継がれているが、兵士型についてはここから現在にいたるまで、新しい事例を聞いたことがない。

これはニセ傷痍軍人たちの消失とも重なっている。いくらフェイクといえど、2000年代以降に戦傷病者が路上に立つという状況は、あまりにも信憑性に乏しい。

また90年代以降のホームレス排斥運動、祭り・縁日の業態変化なども影響しているだろう。

21世紀から彼らの目撃例は激減し、現在にいたってはもはや根絶されたと考えてよい。

そして戦争にまつわる怪談を全般的に見渡しても、2000年を境に大きく減少している。それは学校の怪談に限らず、大人たちの語る都市伝説、あるいは実話怪談でも同様だ。

私の中心的活動である実話怪談を見渡しても、体験者が自身の不思議な体験を「戦死者」「戦災犠牲者」と結びつける事例は少ない。中河原海岸水難事故、沖縄市のテケテケ由来譚のように、かつて「戦争」は怪談の解釈コードの一端を担っていた。

多くの学校で「戦死者」「戦災犠牲者」の霊が出るといった怪談が語られていた。だが近年では、よほど明確な因果関係がない限り、戦争と怪談が結び付けられることはない。

こうした状況を暗示しているような、興味深い怪談がある。

戦争怪談にリアリティを求めることは難しい

実話怪談プレイヤーのクダマツヒロシが高校生だった時、同級生から聞いた話だという。

——2004年、神戸市長田区でのこと。クダマツ氏の通うI高校周辺で「深夜、旧日本軍の兵士の幽霊が出る」との噂が流れていた。それに関して、級友のM君からも過去の体験談を聞く。

当時から2、3年前。

I高校近くの家に住んでいたM君は、中学生の時点で「日本兵の霊」の噂を聞き及んでいた。さっそく怪談好きの兄に質問すると「噂だけは聞いている。俺は見てないけど」との回答。

その瞬間、二人がいる居間の窓が外から叩かれた。

M君がカーテンを開けると、庭には誰の姿もない。しかし兄は悲鳴を上げて2階へ逃げてしまった。バン、バンと窓を叩く音だけが続くので、M君も居間を出ていった。

後日、兄がM君に語った話によれば、兄は窓の外に「赤い服を着た女」が立っているのが見えたので、慌てて2階へ逃げたらしい。2階の窓から見下ろすと、赤い女が庭をぐるぐる回っている。こちらに気づいた女は顔を上げ、兄に向かって次の言葉を繰り返したというのだ。

「わたしのことでしょ! わたしのことでしょ!」
 
クダマツ氏はこの怪談を2021年9月24日放送の『実話怪談倶楽部』(フジテレビONE)にて発表した。タイトルは「呼び水」である。

その放送を視聴したカシマ研究者の青山葵が、私へ連絡してきたのである。私も青山氏も、すぐにこれがカシマ怪談の現代版であると判断した。

I高校の周辺に出るという日本兵姿の男は、噂だけで姿を見せない。その代わり、彼について語った者の前に、赤い服の女が窓越しに現れ、それは自分の話だと訴える。

「呼び水」の背景には、兵士型が駆逐され、女性型だけとなったカシマ怪談の変遷が参照されている。赤い女は、近年のカシマによくある表象であり、かつ現代怪談に広く出てくる怪異のイメージである。

私自身ここ数年来、「赤い女」を現代怪談を解釈するための一テーマとして調査し続けている。つまり「呼び水」ではカシマ怪談の変遷だけでなく、旧日本兵や戦争にまつわる怪談から、現代怪談に頻出する「赤い女」へと移行した状況が暗に示されている。「呼び水」は、メタ視点から怪談史をなぞるような、批評的構造を持つ怪談なのだ。

しかもクダマツ氏やM君たちは、カシマ怪談について一切認知していなかった。番組放送を見た我々が連絡したことで、初めてクダマツ氏はカシマの存在を知ったのである。元ネタが置き去りにされたまま、奇妙な批評的構造を露わにした怪談が語られていく。

なんとも現代らしい怪談のありようではないか。

それは戦争の影を巧みに暗示するトンカラトンとも似ている。子どもたちは旧日本兵などの背景を明確に意識しないまま、トンカラトンというキャラクターに恐怖した。そして2000年代の「呼び水」は、さらに次世代の語り口となる。旧日本兵はその姿を登場させることすらなく、批評対象として存在を匂わせるのみだ。

しかし現代においてなお戦争怪談を語るには、そうした方法をとるしかないのだろう。もはや戦後80年を迎え、ニセモノの傷痍軍人すら姿を消した今、戦争怪談にリアリティを求めることは難しい。何らかの新しい切り口を模索しなくては、戦争にまつわる怪談は成立しがたいところまできてしまっている。

ただ少数とはいえ、「呼び水」のような話が生まれているのも事実なのだ。今後も様々な方法をとりながら、戦争怪談はしぶとく生き残っていくのかもしれない。そして子どもたちはそれと意識しないまま、学校で戦争怪談を語っていくのかもしれない。

文/吉田悠軌

よみがえる「学校の怪談」

吉田 悠軌
「お父さんに殺されろ」戦争が生んだ傷痍軍人の幽霊“カシマさん”はなぜ消えたのか…それでも子どもたちが無意識に学校で戦争怪談を語り続ける可能性
よみがえる「学校の怪談」
2025年7月4日発売1,540円(税込)新書判/256ページISBN: 978-4-08-788121-9

恐怖が生まれ増殖する場所は、いつも「学校」だった――。
繰り返しながら進化する「学校の怪談」をめぐる論考集。

90年代にシリーズの刊行が始まり、一躍ベストセラーとなった『学校の怪談』。
コミカライズやアニメ化、映画化を経て、無数の学校の怪談が社会へと広がっていった。
ブームから30年、その血脈は日本のホラーシーンにどのように受け継がれているのか。
学校は、子どもたちは、今どのように語りの場を形成しているのか。
教育学、民俗学、漫画、文芸……あらゆる視点から「学校の怪談」を再照射する一冊。 

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