〈15歳で実父の子を妊娠〉世帯年収3000万円超でもDV、性被害に苦しんだ23歳女性の独白「自分と同じような境遇の子ども達を助ける仕事をしたい」
〈15歳で実父の子を妊娠〉世帯年収3000万円超でもDV、性被害に苦しんだ23歳女性の独白「自分と同じような境遇の子ども達を助ける仕事をしたい」

「衛生行政報告例」によると令和5年度の人工妊娠中絶件数は12万5千件を超えた。この件数はここ10年で決して多いわけではなく、各年10万件を超える中絶がなされている。

しかし、自らの父の子を宿した女性がこの世にどれほどいるだろうか。そうした経験も持つ香菜さん(仮名)は、妊娠検査薬が陽性を示す二重線が出たとき、深い絶望に溺れていた。 

中3で実父の子を妊娠 

2002年、香菜さんは産声を上げた。しかし、その誕生は祝福を受けなかった。

「もうお兄ちゃんがいるから、あなたはいらなかったけど、私の慰めになるかなと思って」

物心がついたとき、母にこう言われたのを今でも鮮明に覚えているという。その言葉通り、香菜さんは兄の何倍も酷い虐待を受けることになる。

3歳のときには父の癇癪により左腕をつかまれ、引きずりまわされ、骨折をした。その光景から母は目を逸らし止めることはなかった。香菜さんの痛みと恐怖に支配された泣き声は、誰にも届かなかった。

「うちの最高権力者は父で、母もDV被害を受けていました。私が7歳のときから、母は父の暴力から逃げるように仕事で海外出張へ行きました。1カ月、長いと2年間行くようなことが何度もあって。捨てられたんです」(香菜さん、以下同)

彼女が9歳になると、父による性的虐待が始まった。

週に一回ほど、父は彼女のベッドに入り、胸や下半身をまさぐるようになった。自らの意に沿わないことは暴力で押さえつける父に、抵抗が何の意味を持たないことを彼女はすでに知りすぎていた。

「最初に体を触られてから、1カ月経つかというとき、初めて本番を強要されました。逆らうともっとひどくなることはわかっていたので必死に声を殺し、寝たふりをしてやりすごしました」

まだ成長しきっていない体での父本位の性行為は、恐怖と嫌悪と激痛が全身を襲った。

「いつからか生理も始まり、『このままだと妊娠する』と思うと不安で堪りませんでした。そして中学3年生のとき、つわりのような症状があって検査をしたら妊娠がわかりました。

1人じゃ抱えきれなくて、父への恨みとショックと恐怖と全部がごちゃごちゃになりました。どうしようもなくなり、父に泣きながら妊娠したことを伝えました」

海外へ赴任中だった母は、娘の妊娠も中絶も知らない。

世帯年収は3000万円超あった 

彼女の父は経営者だという。母は外資系金融機関に勤める。母の年収は1500万円くらい、父はそれ以上だという。合計しても世帯年収3000万円だ。

人並み外れた癇癪を持った父と、虐待される我が子を見てみぬふりどころか精神的加害を加える母の2人が、キャリアでそこまで成功を収めるとはとても信じがたい。

「父は完全に二重人格。優しい表面を持ちながらキレたときはあまりに恐ろしいから、従業員も精神的に支配されているんじゃないかな。児童相談所の職員に『良いご両親ですね』と言われたことが印象に残っています。

一方の母は、小さいころは被害者意識を共有できる存在でした。しかし次第に強くなる父の支配に、私をサンドバックにしていきました」

こどもの虐待の背景にある多くは貧困だ。しかし世帯年収3000万円があっても、母の「慰め」でしかない彼女に使われるお金はなかったという。

「高校と大学の費用は自分で捻出しました。バイトは週5でやっていたけど、私が思い通りに生きているのが気に食わなかったからか、母に稼いだお金を搾取されました。

援助交際もしました。お金が必要なのもあったんですが、父との行為を上書きしたくて。どんなに年が離れても、見た目が好きでなくても、お金をくれればなんでもやりました。そうやって月12万くらい稼いだけど、学費と自分が生きていく分だけで消えていきました」

香菜さんは表情を変えずに淡々と話す。

時折、こちらの質問に控えめに「はい」とだけ答え、先の言葉が続かない。“人に理解してほしい、話を聞いてほしい、大変だったねと言ってほしい”そんな他人への期待など一切感じられない。

「大学生から一人暮らしを始めましたが、物理的に暴力がないとかの意味では楽になりました。けど、相変わらず生きることは辛い。

お金もないし、中絶をしたせいか『人殺し』って幻聴が聞こえたり、夜フラッシュバックが起きて猛烈に辛くなって、眠れなかったりします」

「環境のせいにはしたくないし……できなくないですか?」

 取材にあたって、彼女のXを一通りチェックした。憂鬱な気持ちや生活の苦しさにまつわる投稿が多い中、前を向く努力をする投稿があることに目を引かれる。

“若者支援に携わってみたい”

“自分と同じような境遇の子ども達を助ける仕事もしたいし起業もしたい”

「もうとっくの昔に全部が嫌になってたけど、大学生のときに『無理して生きることはないな』って終わらせようとしました。でも気がついたらまだ生きてた。生きるしかないって諦めがついたら、これからどう生きるかを突きつけられた感覚になりました」

それでもなぜ前を向く努力ができるのか、彼女に問う。

「社会に出て、『わたしはこんな過去があったから鬱病も激しく、自殺未遂もあり、だから相応の配慮をしてください』なんて言えないことはよくわかっています。生きるのならば、楽しいと感じることができるようになりたい。

環境のせいにはしたくないし……できなくないですか?」

1時間を超すインタビューの終盤で初めて質問に質問で返され驚く。

これまでにない語気の鋭さがあった。何度も自分の中で繰り返されたであろう問いと、それに対する覚悟が滲んでいた。

香菜さんにはどれだけ自分の境遇が凄惨でも、それらを強みに変える強さがある。同じ境遇の若者たちに自らの手で祝福を作ろうとしている。

「生きていていい」「ここにいていい」という感覚を得ようと、得られる環境を自ら作ろうと、彼女は今日も必死に生きている。

取材・文/なっちゃの 写真/Shutterstock

編集部おすすめ