
参議院選挙で大敗した石破自民。昨年の衆院選、今年の都議選に続いて、石破政権にとっては3敗目だ。
石破総理は電話をすれば気軽に取材に応じてくれる人物
読売新聞が死んだ日――日本のジャーナルが一つの終焉を迎えた日として記憶されるべき出来事が起きた。
7月23日、読売新聞は「石破首相退陣へ、月内にも表明する方向で調整…関税協議の妥結踏まえ意向固める」という大見出しの号外を世に放った。毎日新聞も同様に報じている。
しかし、私が「読売新聞が死んだ日」としているのは7月23日のことではない。後述するが、報道機関の死を招いた病巣は、もっと深く、暗い場所で進行していたわけだ。
7月23日の大誤報が些細な過ちであったわけではない。最低限の本人確認すら怠った報道は、ジャーナリズムの基本動作を放棄したに等しい。
一定クラス以上の報道機関やジャーナリストであれば誰もが知る事実であるが、石破茂という政治家は、電話をすれば本人が直接出て気軽に取材に応じてくれる人物である。
初歩的な確認作業を怠り、大誤報を放った背景には、読売新聞政治部の深刻な時代錯誤と構造的欠陥が横たわっている。
かつての派閥政治の時代、主要派閥の領袖が談合すれば首相の首は飛んだ。過去の成功体験に今なお固執する政治部は、派閥領袖周辺からのリーク情報こそが永田町の力学を動かすと信じ込んでいた。派閥の影響力が著しく低下し、個々の議員が自身の損得勘定で動くという政治の構造変化を全く理解できていなかった。
古い地図を頼りに未知の航海に出て、自ら座礁したのである。
石破茂首相は同日中に、「そのような発言は一切していない」と報道内容を明確に否定した。本人が退陣の意向がないと主張しているわけであり、むしろ何を根拠に読売新聞が退陣の意向があると報じたかが問われるべき由々しき事態だ。
退陣報道について「本紙は新聞のプレゼンス維持でも気を吐いている」
報道機関は、事実と異なる報道をした場合、速やかに訂正記事を掲載し、読者に対して誠実に謝罪する義務を負う。だが、読売新聞は訂正も謝罪も一切行なわなかった。
一部報道によると7月29日の社内報では、退陣報道について「本紙は新聞のプレゼンス維持でも気を吐いている」と自画自賛し、組織の成果として誇ったという。
誤報の重大性を矮小化し、自らの権威を墨守しようとする態度は、ジャーナリズムの基本原則である事実に基づく報道と誤りを認める誠実さを根本から踏みにじる行為である。
ここまでの段階でも、読売新聞のジャーナリズムは複雑骨折の状態にあったが、まだ死んではいなかった。
読売新聞がジャーナリズムとして「死んだ瞬間」は、週刊文春の報道によって白日の下に晒された。
週刊文春2025年8月20日発売号によると、読売新聞グループ本社の山口寿一社長は8月4日からの週に石破首相と極秘に面会し、誤報について釈明と謝罪の意を表明したという。密室での取引、直後に起きた紙面の豹変こそが、読売新聞の死亡診断書である。
誤報の失態を権力者への阿諛追従で帳消しにしようと
公には一切の非を認めず強弁を続けながら、水面下で最高権力者と手打ちを図る。二枚舌の対応だけでも報道機関としての矜持を捨てたに等しい。致命傷となったのは、面会の前後で、読売新聞の論調が突如として石破政権擁護へと転換したことである。
8月5日、6日の紙面では、石破首相が推進する減反政策からの転換を二日連続で一面トップで好意的に報じ、6日の社説では増産への決断を評価したいと絶賛した。
8月15日には、旧派閥による石破おろしの動きを批判する記事も掲載した。社内で妙に石破寄りと囁かれるほどの露骨な論調変更。誤報の失態を権力者への阿諛追従で帳消しにしようとする醜悪な見返り以外の何物でもない。
報道が、経営トップによる政治的取引の道具と化した瞬間、読売新聞は報道機関であることをやめ、権力の広報機関へと成り下がった。報道と経営の、あってはならない歪んだ一体化が、ジャーナリズムの棺に最後の釘を打ち込んだのである。
この文春の取材に対し、読売新聞は「いずれの質問にも答えられません。
この読売新聞の回答自体が、組織の腐敗を物語っていないか。面会の有無という核心部分について「答えられない」と逃げる姿勢は、事実を隠蔽しようとする意図の表れだ。
そして「謝罪した事実はない」という限定的な否定は、誤報の責任を公式に認めないという傲慢な姿勢を維持しつつ、ブランドイメージを守るための狡猾な自己防衛に過ぎない。
文春記事では、山口社長が「政治部はアンタッチャブルで制御できなかった」と釈明したとされる。この責任転嫁の発言と、面会前後に経営主導としか思えないほど見事に統制された紙面の豹変ぶりは、全く整合性が取れない。
この巨大な矛盾は、読売がジャーナリズムの独立性を装いつつ、実際には経営トップが政権との打算的な取引を主導した可能性を強く示唆する。読売の回答は、自身の失態を隠し、首相との関係修復を水面下で進めるための欺瞞に満ちた策略ではないか。
この誤報が社会に与えた影響は計り知れない。X上では「#石破退陣誤報」がトレンド入りし、号外の画像は嘲笑の対象としてミーム化(ネタにされて拡散)された。
今日現在、読売新聞は社会的な反響を完全に無視し、信頼回復への努力を一切放棄している。紙という安全な穴倉に逃げ込んだつもりなのだろう。
SNSで批判が可視化され、誤報が瞬時に拡散・検証される現代において、旧態依然の権威主義はもはや通用しない。読売新聞は国民の声を軽視し、自らの存在意義を自ら破壊したのである。
私が「死んだ」と断じる理由は、ただ一点
問題の核心を改めて整理したい。
まず誤報そのものが「死因」ではない。回避努力を怠ったとはいえ、報道に誤りは起きるものである。問題は、間違いを犯した後に速やかに訂正し、説明責任を果たす誠実さがあるかどうかだ。読売新聞には誠実さがなかった。
また、権力と近いこと自体が絶対悪なのではない。読者の知る権利のために、あえて権力に深く食い込み、情報を引き出す取材手法もありうる。重要なのは、権力との間に健全な緊張感を保ち、編集方針の独立性を堅持することである。
私が「死んだ」と断じる理由は、ただ一点。読売新聞の経営者と編集方針の、あまりに近すぎる、そして歪んだ距離にある。社長が首相と会った前後で、紙面の方針が180度変わる。
読売新聞は、たまたまのタイミングと主張するのかもしれない。だが、社長がたまたま首相と会った次の日からたまたま編集方針が変わったなどと、誰も信じえないだろう。
ジャーナリズムとして再生したいのであれば、やるべきことは一つ
私は山口社長の過去のインタビューを読んで、新聞がオワコンになっていく時期をなんとか後ろ倒しさせようともがく、優秀な経営者なのだろうと感じていた。
であれば、今こそ、石破首相の歓心など買ったところで一部数だって新聞が売れるわけがないのだから、政治とは距離をおき、経営に専念した方が会社のためにもなると思う。
読売新聞がジャーナリズムとして再生したいのであれば、やるべきことは一つだ。経営と編集の間に、決して越えることのできない強固なファイアウォールを再構築することである。
編集現場の独立性を絶対的に担保するため、経営トップが編集方針に一切介入できないという断固たるコンプライアンスを確立すべきだ。
現状のままでは読売新聞にジャーナリズムの未来を語る資格はない。日本のジャーナリズム史に、拭い去ることのできない汚点を残したという重い事実と、真摯に向き合う時である。
文/小倉健一