「人の姿を借りて笑いを取っている。これを芸と言っていいのか」明石家さんまの憑依を続けて“自分”を見失い、ものまねをやめようと思ったことも〈原口あきまさの本音〉
「人の姿を借りて笑いを取っている。これを芸と言っていいのか」明石家さんまの憑依を続けて“自分”を見失い、ものまねをやめようと思ったことも〈原口あきまさの本音〉

芸能生活30周年を迎える芸人・原口あきまさ。ものまね芸人として数々のレパートリーを持ち、ものまね以外のバラエティ番組でも活躍の幅を広げている。

しかし、過去には「人の真似をして笑いを取る」という“ものまね芸”に苦しんだこともあるという。(全3回の1回目)

舞台で爪痕を残すためにひねり出した「ものまね」

今年7月30日、芸能事務所ケイダッシュの川村龍夫会長が84歳で逝去した。ケイダッシュステージのバラエティ班1期生としてキャリアをスタートした原口あきまさは、その訃報に接した時、ひとつの言葉を思い出したという。

「年に1回、会長の誕生日会を兼ねたケイダッシュグループの新年会があって、そのときや本社で姿をお見かけしたときにお話しをさせていただいていました。言葉は少ないながらも、『自分に飽きたら終わりだぞ』と言っていただいたことをすごく覚えています。

以来、自分が自分の一番のファンでいようと、ずっと心に決めています。会長にしっかり褒められたことはなかったけど、でも、僕なんかのことも見てくれてんだなって。本当に急でしたね……」

ものまね芸人・原口あきまさの原点は「芸人」だ。同期には専門学校時代の後輩である、はなわ、2016年に惜しまれつつ亡くなった前田健さんや、R-1ぐらんぷり 2007ファイナリストの大輪教授の名も並ぶ。

「もともとは同級生とコンビを組んでいて、ツッコミとして漫才やコントをしていました。専門学校時代の講師の方が、ケイダッシュのバラエティ班の立ち上げに携わることになって声をかけられたんですが、1人で行くのが嫌だったから、後輩だったはなわを誘って。巻き込んじゃった形になって申し訳なかったですけど(笑)」

お笑い事務所としては、まだまだ無名。先輩も後輩もいない創設期の空気の中で、ステージの端から「爪痕」を残していくしかなかった。



「『ケイダッシュステージ? どこやねん、それ』みたいな状況でした。ライブのエンディングで他事務所の芸人が次回のライブ告知をするなか、僕らはなんの予定もない。でも、爪痕を残さなあかんって『ものまねやります!』って無理くりやってたんです。本当に楽屋レベル(の内輪ネタ)でしたけどね」

ものまね芸人になる気はまったくなかったが、コンビを解散したあと、相方が見つからない。ピン芸人の道を考え始めたとき、脇に置いていたものまねの技術が新たな扉を開いた。

「新しいコンビを組みたかったけど、まったく相方が見つからなくて。もうピンで漫談か、1人コントか……と考えていたときに、僕がものまねをやっていることを知っていた事務所の後輩に勧められて、ものまねの番組のオーディションを受けたんです。

最初はテレビ東京の素人ものまね番組だったけど、そのスタッフさんが日本テレビで新しいものまね番組を始めるということで、縁がつながっていきました」

さんまさんを憑依させ続けると「どこかおかしくなってくる」

その番組こそ、1994年にスタートした『超豪華!史上最強ものまねバトル大賞』(現在は、後継番組の『ものまねグランプリ』として放送中)。ものまねに対する方向性の違いや番組プロデューサーとの確執から、フジテレビで放送されていた人気番組『ものまね王座決定戦』をやめたコロッケを筆頭に、岩本恭生、篠塚満由美に加え、司会の研ナオコらもこちらに移籍し、のちにフジのライバル番組になっていく。

「当時は、ものまね四天王(清水アキラ・ビジーフォー〈グッチ裕三モト冬樹〉・栗田貫一・コロッケ)からコロッケさんが抜けて、ものまねブームが沈下していってる時期でした。だから、もう一度盛り上げたいと、コロッケさんと岩本恭生さんをメインに汐留(日本テレビ)で始めることになったんだと思います」

やがて原口の代名詞となる、明石家さんまのものまねもこの番組スタッフに提案されて生まれている。芸人としてはなかなか芽が出なかった原口だが、ものまね番組に出演してから人気を博すのは早かった。特に、コージー冨田扮するタモリと、原口扮する明石家さんまによる掛け合いは話題を呼んだ。



「だけど、ものまねでやっていくつもりもなく始めてしまったので、壁にぶち当たったこともあります。やっぱり、人の姿を借りて笑いを取っている――それって本当に自分の芸事なのか、これを芸と言っていいのかと、いろいろ考えてしまう時期があって。

それこそコージーさんとの掛け合いのときは、ずっとさんまさんを自分の中に降ろしているから、どこかおかしくなってくるんです。頭が痛くなって、自分も見失って。声の迷子にもなるし、本当の自分ってどんな感じなんだろう、本来のキャラって何なんだろうって、本当に葛藤の日々でした。

正直、ものまねをやりたくないな、という時期もありました」

そんな彼の背中を押してくれたのは、ネタを続けていくうちに得られた意外な評価だった。

「当時はしゃべりものまねってあまり評価されてなかったんです。どちらかというと歌がメインで、ものまねの見せ方としてもボケっぱなし。対して、タモリさんのボケにさんまさんがツッコむという掛け合いの形にみんな慣れていなかったから、理解してもらうのに少し時間がかかったなと思います。

ただ、僕としても一度これで世に出たからには、このまま尻すぼみに終わるのは嫌だなと思って、コージーさんとたくさん話し合いました。ものまね四天王さんがやってきた『デフォルメ』のものまねの形ではかなわない。だからこそ、僕たちは空気感で見せていったほうがいいんじゃないかって。

その人たちがその場にいるようなリアリティを追求しました。

だから、見た目も特にデフォルメはせず、僕だったら、本当に入れ歯を入れるぐらいです」

ものまね業界の空席を見つけて、ものまねに魂を売れた

方針が決まると、互いにずっと人物を憑依させて会話を続ける、1000本ノックのような日々が始まった。

「コージーさんがタモリさんや島田紳助さんで話しかけて、僕はさんまさんで返す。地方の営業で東京から会場に行くまでの道のりもずっとそれ。まともにネタ合わせなんか1回もしたことないけど、そこでできたくだりがステージでのネタになっていきました。そのときに、ふと『俺、芸人っぽいことやってるかも』って思ったんです」

次第に「明石家さんまが言いそうなこと」だけでなく、自分の気持ちを明石家さんまの声に乗せてツッコんでも、笑いが生まれるようになっていく。

「それでお客さんが笑ってくれたから、ようやく自分を認められた気がします。『日本一の最低男』(『笑っていいとも!』内の人気コーナー)、あの2人のシチュエーションで、僕が普通にしゃべり出したら、タモさんがケツを触ってくる(笑)。

『何してんねん!』ってツッコむと笑いが生まれて、それがどんどん転がっていくんです。そのときに『あ、これ漫才だな』って思いました。ものまねでこういう掛け合いはなかったので、それをみんなが面白がってくれたんですよね」

同時に、元来はツッコミ芸人であった原口が、ものまね業界の空席を発見する。

「『あれ? ものまね業界ってツッコミの人いないな』って。

その椅子がぽっかり空いてた。それなら、もう僕はそこに座り続けようと思って。その基盤を作り上げちゃえば、誰かが出てきても、結局、原口の真似ごとになるんじゃないかって。そこに気付けたことによって、僕、やっと魂売れたんすよ。ものまねに魂を売った男です(笑)」#2へつづく

取材・文/森野広明 撮影/石垣星児

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