古賀稔彦 金メダル最有力候補
中学・高校と中量級のタイトルを総なめにした古賀は、大学や社会人になってからもその才能を遺憾なく発揮。国内にて行われる71kg級の主要大会で優勝を重ねたほか、世界ジュニアはじめとする学生の国際大会でも活躍する。

21歳のときに、初の五輪(1988年ソウル五輪)メンバーとして選出されたが、3回戦敗退と世界の壁を痛感することに。その後は1989年と1991年に世界選手権を制覇し、71kg級の金メダル最有力候補としてバルセロナ五輪へ挑むこととなった。
吉田秀彦 中高を古賀と過ごした後輩
古賀より階級が1つ上の吉田は古賀同様、中学・高校と軽重量級で輝かしい実績を残した。大学に進学すると、78kg級で全日本および世界学生体重別選手権で優勝し、22歳にしてバルセロナ五輪の切符を手にすることに。
吉田は古賀の2学年下であり、中学も高校も一緒であることから、厳しい練習かつ同じ釜の飯を共にした先輩後輩の関係でもある。
小川直也 2人とは対照的な遅咲きタイプ
当時の最重量級は、打倒日本が世界の図式であった。ロス五輪の山下泰裕、ソウル五輪の斉藤仁という、その名を世界に轟かせた金メダリストの存在が偉大過ぎたからだ。
そんなとき、惑星の如く出現した小川は、バルセロナ五輪のホープとして注目を集めることに。小川が柔道をはじめたのは、高校に入学してから。それでも大学に入ると、世界選手権での優勝を皮切りに、めきめき頭角を現していき、主要タイトルを次々と獲得。
古賀稔彦の大けがと金メダル
各国の選手団が現地入りするなか、目を覆いたくなるような痛々しいニュースが日本に舞い込んでくる。古賀は吉田との稽古中に、左膝のじん帯を損傷し、最低でも3週間の安静が必要との診断が入る。これにより、試合など到底できない状態に陥ったのだ……。

アクシデントとはいえ、怪我をさせてしまった吉田の精神的ダメージも大きかった。しかし、蓋を開けて見れば、6戦すべてにおいて一本勝ち。それも合わせ技ではなく、一つの決まり手で倒すという完璧な金メダルであった。最年少である吉田の奮闘は、チーム内の志気を高めるともに、古賀にも影響を与えた。
そして一方の怪我をした側の古賀。左膝に痛み止め注射を打っての強行出場となったが、畳の上に立つと、いつもと変わらぬ闘志あふれる姿を見せた。
とはいえ、怪我の代償は大きく、一本背負いで圧倒する古賀特有の試合運びではなかった。それでも、なんとか決勝まで進んだ古賀は、最後の相手を判定で下して見事に奇跡の金メダルに輝いた。
小川直也のまさかの波乱

このような日本男子柔道の勢いに乗せられ、小川は柔道最終日の大トリで出場。
本人自身も銀メダルは予想外と思ったのであろうか、「完敗です」と言葉少なめの記者会見だった。
この1992年バルセロナ五輪で日本が獲得した金メダルは3つ。そのうちの2つを男子柔道がもたらした結果となった。1964年の東京五輪で柔道が正式種目に決定後は、必ず金メダルを獲得する「お家芸」であったが、前回のロンドン五輪で男子柔道の金メダルは途絶えることとなった。来年のリオ五輪、さらに5年後の東京五輪では柔道王国の復活に期待したい。
(ぶざりあんがんこ)
「古賀稔彦―世界を獲った男、その生き方」
「終わりなき挑戦〜柔道家・吉田秀彦の生き様〜」
「小川直也フォトブック「裸の選択」」