かつて巨人、ニューヨークヤンキースなどで活躍し、現在はヤンキースのGM特別アドバイザーを務める松井秀喜。
彼が高校時代に経験した甲子園での5打席連続敬遠は1992年、社会問題になるほどの騒ぎになった。
あの5連続敬遠とは一体なんだったのだろうか?

高校時代の松井秀喜


高校時代の松井秀喜はとにかく規格外だった。野球の強豪である星稜高校では、1年生ながらも早くも4番打者を任されて甲子園に出場したほど。
松井が三年生になった時に甲子園のラッキーゾーンが撤廃され、本塁打数の激減が予想される中、「僕には関係ない」と言い切れるだけの逸材であった。

高校最後の夏の甲子園では、文句なしで大会最大の目玉選手。プロのスカウトも松井目当てで甲子園に集まる中、二回戦で明徳義塾高校と対戦することなる。

明徳義塾の5連続敬遠


明徳義塾高校の馬渕史郎監督は松井を見て、「高校生の中に一人だけプロがいる」と思ったそう。そのため、馬渕は勝利のために松井との勝負を避けることを選択する。

松井の第一打席は初回ツーアウト3塁、ここで敬遠。
第二打席は3回ワンアウト2塁3塁、ここも敬遠。第三打席は5回ワンアウトランナー1塁、ここでも敬遠。
第四打席は7回、ツーアウトランナーなし。ランナーがいなかったため、ここではさすがに勝負をするかに思われたが、なんとこの場面でも敬遠を選択したのだった。

そして最終打席となった9回ツーアウトランナー3塁。なんとここでも明徳義塾は松井に対して敬遠策を取る。
この様子を見たスタンドのファンからは野次と怒号、ブーイングが起き、グランドに物が投げ込まれるなど異様な雰囲気となった。
結局、星稜高校の次の打者が凡退して試合終了し、松井の夏は終わったのだった。

新聞や高野連も 相次いだ明徳バッシング


試合終了後の明徳の校歌斉唱も、ブーイングのためにまったく聞こえない事態に。明徳義塾高校の選手たちはうつむいたままグランドを引き上げ、馬渕監督は「正々堂々と戦って潔く散るというのもひとつの選択だったかもしれないが、県代表として、ひとつでも多く甲子園で勝たせたいと思った」とコメントを残した。
また、明徳義塾の宿舎には、試合終了直後から「選手に危害を加える」などの抗議や嫌がらせの電話と投書が相次ぎ、宿舎の周りには、馬淵監督や選手達の身を守るために、警察官やパトカーが出動したほど。

そして翌日のスポーツ新聞では、明徳に対して批判的な内容の記事が相次ぎ、夏の甲子園の主催者である朝日新聞でさえもが、「大事なもの忘れた明徳ベンチ」という批判コラムを掲載。
また、高野連が大会中にも関わらず、「無走者の時には、正面から勝負して欲しかった。
一年間、この日のためにお互いに苦しい練習をしてきたのだから、その力を思い切りぶつけ合うのが高校野球ではないか」という異例の談話を発表した。

その一方で当時者の松井は、一言も非難することなく「歩かすのも作戦。自分がどうこう言えない」とコメントを残している。

その後の松井秀喜と明徳投手


松井秀喜はこの年の11月、ドラフト会議で4球団に1位指名され抽選の結果、巨人に入団。
その一方で、5打席敬遠をした明徳の投手・河野は大学へ進学するも、5連続敬遠をからかわれるなどして退学。野球を辞めてしまう。


5打席連続敬遠以降、相見えることはなかった両者だが、2013年にテレビ番組の企画で久しぶりの再会。
河野は「当時は5万5000人を敵に回すより、サインを無視して監督を敵に回す方が怖かったですからね」、「1発がある松井を歩かせる作戦は間違っていなかったと思いますが、ファンは許せなかったんでしょう」と当時を振り返った。
そして一方の松井も「今ではいい思い出です。負けたことは悔しかったが、5打席連続敬遠は打者としての誇りです」と語っている。

この5打席連続敬遠騒動では、度々高校野球で問われていた「勝利至上主義」と「教育」のどちらが大事であるのかという部分が、改めて浮き彫りとなる結果になった。
しかし確実に言えることは、松井秀喜という打者が5連続敬遠されるほど、偉大な存在であったということだ。

(篁五郎)