新年早々、全国的な騒ぎに発展したSMAPの解散騒動。育ての親であるマネージャーの独立に伴い、ジャニーズ事務所からの独立を画策したと言われる4人とジャニーズ事務所残留にこだわった木村拓哉。
大きな騒動になったこともあり、テレビ生謝罪を経て、いったん事態は収束に向かったようだ。
そこには「ジャニーズ事務所を辞めると干されるかもしれない」という恐れや不安は少なからずあったに違いない。

【ジャニーズ独立の郷ひろみ 干されなかった理由】


これまで、ジャニーズ事務所を辞めた後も干されることなく、コンスタントに活躍する数少ないタレントの代表格は郷ひろみだ。その理由はいくつかある。
1972年にデビューした郷ひろみは、アイドルとして一気に注目され十代の女子の心をつかんだ。雑誌『明星』で一年に一度行う「オールスター人気投票」で、1973年~79年まで連続7年第一位を獲得。ソロのアイドル歌手として長く活躍した人が少ないため比較しにくいが、当時は全盛期の木村拓哉ぐらいの人気を誇っていたのだ。


そんな郷ひろみが独立したのは1975年3月。ジャニーズ事務所がジャニー喜多川氏の個人事務所から正式に法人化したのがその年の1月であり、当時は所属タレントも少なく、芸能事務所として今ほどの力をもっていなかった。
また、移籍事務所が大手のバーニングプロへと移籍したということが大きいようだ。4月1日にバーニングプロに移籍して、4月には移籍後第一弾シングル『花のように鳥のように』を発売し、レコードプレスは800万枚、今では考えられない数字だ。

【郷ひろみ バラード3部作で大人の歌手に】


その郷ひろみが今も歌をメインに、息長く、しかものびのびと楽しそうに活躍しているのは90年代のバラード3部作のヒットが大きい。
1993年に楠瀬誠志郎が作曲し、アルバムに収録されていた『僕がどんなに君を好きか君は知らない』のカバーをリリース。それまでの郷ひろみの楽曲にはなかった大人の男性の片思いの切ない気持ちを歌った同曲は、有線放送を中心にじわじわと浸透し、ロングヒットに結びついた。

1994年に『言えないよ』、1995年に『逢いたくてしかたない』と、ラブバラードを3年連続で次々リリースした『バラード三部作』で、男性にもファン層を広げた。

【『ゴールドフィンガー’99』のヒット】


それまでアイドル系ポップスを中心に歌ってきた郷ひろみは、90年代に『泣けばいい』『どんなに君が離れていたって』『ゆっくり恋しよう』など、ミディアムバラードを続けて多くリリースしている。
そして、1999年にリリースした洋楽のカバー『ゴールドフィンガー’99』が46万枚のヒット。40代半ばにして、鍛え上げられた肉体とダンス、『アチチ』というキャッチーなサビとユニークな振り付け、独自の世界観、ゲリラライブの話題性、そのインパクトで、ファンの子どもたち世代、若い層にもファンを拡大。
『ゴールドフィンガー’99』や『言えないよ』は、今もカラオケでよく歌われている人気曲だ。

新たな歌の世界を広げ、老若男女に広く知られる歌手として地位が確立。
仕事は順調だった90年代の郷だが、プライベートでは1998年に二谷友里恵と離婚。スキャンダルや週刊誌にたたかれることも多かったが、それにも負けない、倒れない、干されない郷ひろみはやはり太いファンに支えられた稀有な存在なのかもしれない。
(佐藤ジェニー)
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