サッカーに疎い筆者が語るのも恐縮なのだが、「外国人がチームの指導者に就く状況って大丈夫なのかな?」と不安にならないこともない。詳しい知人に聞くと、やはり本当は日本人が監督・コーチでいた方が良いらしい。
ただ、どうしても経験値で日本人は劣ってしまう。
たしかに、トルシエが指導していた日本代表は結果を出していたし、言葉の壁を超えて選手と指導者が通じ合うことも珍しくはないのだろう。

三沢光晴らの“高い壁”として、外国人エースのスタン・ハンセンが登場


90年代の全日本プロレスでは、御大・ジャイアント馬場の“長男”と“次男”が相次いで戦線を離脱している。

次男坊である天龍源一郎は当時の所属レスラーで最も集客力のある選手だったが、90年に全日を離脱し、自らがトップに立つ新団体「SWS」旗揚げに参加した。
このタイミングで全日の危機を救うべく浮上したのは、“三男坊”の三沢光晴。“長男”であるジャンボ鶴田とエースの座を賭けた世代闘争を展開し、団体は再び活況。「怪物」の異名をとり、当時のマット界で実力ナンバー1の呼び声も高かった鶴田に新世代代表・三沢が挑む構図はファンのシンパシーをこれでもかと鷲掴みにしていた。

しかし、“長男”ジャンボ鶴田が92年にB型肝炎を発症、長期入院を余儀なくされる。以降、鶴田が闘いの第一線に戻ってくることはなかった。

スライド式に、三沢が日本人選手のトップポジションに就くこととなった。しかし、古株のファンからすると、まだ物足りない。鶴田との抗争時に“ガラスのエース”と揶揄する声もあった。才能ある三沢だけに、まだ伸びしろはあるはず。
彼には、これからも“高い壁”となる存在が必要なのだ。
そこで立ちはだかったのが、外国人エースのスタン・ハンセンである。

ジャイアント馬場は、初めから“ハンセン効果”を期待していた


ハンセンが新日本プロレスから全日本プロレスへ移籍したのは、1981年。それまでは新日の押しも押されぬ外国人エースとしてアントニオ猪木のライバルを務め上げ、同団体で繰り広げられた田園コロシアムでのアンドレ・ザ・ジャイアントとの死闘は今でも語り草だ。

そんなハンセンを、馬場はヘッドハンティングする。その際、馬場は「全日本は君のファイトスタイルを求めている。そのスタイルは変えないで、君のスタイルによって全日本を変えてくれ」とハンセンに求めたという。

テリー・ファンクやディック・マードックのスタイルを参考にし、それを自分流のオリジナルへと昇華させた彼の猪突猛進な闘いぶりは、たしかに他選手へ影響を与えている。天龍による「ハンセンにはプロレスラーの凄さを、ブロディにはプロレスの凄さを教えられた」という回顧は、あまりにも有名だ。

馬場は、ハンセンが他の日本人選手へ与える影響を初めから期待していた。この影響を、三沢以下の若き芽も受け取る必要がそろそろ出てきた。期待の星を千尋の谷に突き落とす役割が、鶴田からハンセンにバトンタッチされたのだ。

「三沢らより前にハンセンに相談していた」(渕正信)


90年代全日本プロレスにて“ブッカー”の役割を担っていた渕正信は、当時のハンセンの重要性を以下のように明かしてくれている。
「ハンセンと今後の方針についてディスカッションするようになったのは、90年の秋ぐらいからだったかな。
まず馬場さんといろいろ相談して、その次に相談するのは三沢や川田じゃなくてハンセンだったよ。(中略)ハンセンには“内容を残した上で、若い日本人選手や外国人選手の壁になってほしい”というような要望を出したはずだよ」(「G SPIRITS」vol.27より)

とは言え、ハンセンはいまだ現役バリバリのトップ。三沢たちに対し、妙な親心を抱きながらファイトしていたわけではない。
「私としては彼らを意識的に育てたつもりなどまったくない。私は、私自身のポジションを彼らに譲りたくはなかったから、彼らが上がってこられないように、必死になって抑えつけていたに過ぎない。しかし彼らは、私に負けては立ち上がり、叩きのめされては再び食って掛かってきた」(スタン・ハンセン著『日は、また昇る』より)

若い芽に“負荷”をかけるハンセンの感情は本物だった。
例えば、小橋建太(現・建太)の台頭を喜んでいるかマスコミに質問されたハンセンは、内心でこう思っていたという。
「現役当時、そんな気持ちはまったくなかった。私は彼らを抑えつけるのに必死だった。うれしいという感情を持ったのは、その仕掛けをつくった馬場のほうだろう」(『日は、また昇る』より)

このハンセンの感情については、ブッカー・渕正信も理解していた。
「それまで鶴田、天龍とガンガンやっていたハンセンにしてみたら、三沢や川田は歯刃にもかけないようなヤングボーイだから、“冗談じゃない!”って怒っても当然なんだけど、そこはディスカッション」(「G SPIRITS」vol.27より)

鶴田と天龍が去り、ハンセンが一人で“若い芽”に立ちはだかる


ハンセンの“叩き潰し”に耐え、反撃することで、三沢らは真のトップレスラーとなっていく。反対に、ハンセンは年齢的な問題もあり、レスラーとして下り坂の段階に入っていった。ハンセンと三沢には、年齢にして13歳の差がある。

「接戦になっても最後はラリアットでズバッと若い力を叩き潰すハンセンがいたわけだけど、その分、自分自身だってダメージを受けているんだよ」
「94年の夏辺りから、“膝が痛くてキツいんだ”って、俺にも馬場さんにも言うようになったんだよ。あの身体の大きさで、若くて動きの速い三沢たちに付いていくんだから、膝に負担がかかるのは当然だよね。(中略)天龍さんが抜けて以降、90年からの方向転換はハンセンに無理をさせたと思うんだよ。ハンセンの衰えを早くさせてしまったかもしれない。鶴田さんが病気になってから、ハンセンに掛かる比重が大きくなってしまったね。でも、ハンセンは全日本のために身体を酷使し、無理してくれたんだよな」(渕正信が「G SPIRITS」vol.27にて)

一方で、ハンセンは若き選手との戦いの日々をこのように回顧する。
「私にとっても、四天王が見事に成長してくれたことはうれしいことだ。彼らに胸を貸すハードな試合の連続によって、私が消耗してしまったという見方をする人は少なくないようだが、彼らと本気の潰し合いができたことを私は誇りに思っている」(『日は、また昇る』より)

トップを三沢光晴に譲り、別格的存在となったスタン・ハンセン


次第に、マット上は四天王(三沢、川田、田上、小橋)らによる日本人対決が主流となっていき、外国人、特にハンセンはセミ以下の試合に出ることが多くなっていった。見事に、ハンセンは“名コーチ”としての役割を完遂したのだ。
「とくに三沢、小橋、川田の3人は、いくら手ひどく潰しても、何度でも立ち上がってきた。そんな様子を見せつけていたから、彼らがようやくトップに立ったとき、ファンの誰もがその実力を信じて疑わなかった。『これは、本当にトップに立った選手だ』と、みんなが認めてくれた。それまでのハードな闘いの歴史があって、それに耐えてここまでやってきたわけだから、ファンも彼らを信じることができた。彼らは決して、ある種の物語のうえに無理やりトップに上げられた選手ではないということを」(『日は、また昇る』より)

そして、ハンセンは全日本プロレス内で新たな役割を見つけていた。
「後にハンセンは“93年と94年に馬場と組んで最強タッグに出場したのが、俺にとってはひとつのハイライトだった”と言ってたから、その辺りからハンセン自身、全日本プロレスの中での自分の役割を変えようという気持ちがあったんじゃないのかな。メインのカードも四天王による日本人対決になったしね。ハンセンは最終的に、秋山も含めて四天王世代全員に負けてるんだよ。でも、別格としての人気、ファンの支持を受けていたよね」(渕正信が「G SPIRITS」vol.27にて)

一つの役割を全うし、時代の流れを受け入れたハンセンに対し、ファンは最大級の賛辞を送っている。
「全日本でのキャリアの後半は、観客から沢山の声援をもらったことを記憶しているが、思い返せば、ファンが自分の名前をコールしてくれるとはなんて光栄なことかとあらためて思う」(スタン・ハンセン)
(寺西ジャジューカ)