1997年、当時の四大証券会社のひとつであった「山一證券」が破たんした。「銀行と証券会社は潰れない」と言われていた時代に、巨大証券会社であった山一證券が破たんしたことは世間に強い衝撃を与えた。
山一證券の破たんが日本経済に与えた打撃は大きく、「社員は悪くありません」と涙ながらに頭を下げる社長の姿が連日報道された。なぜ山一證券は破たんしたのか、あらためて振り返ってみよう。


四大証券会社だった山一證券とは


山一證券はどのような会社だったのだろうか。
山一證券は、野村證券、大和證券、日興証券と並ぶ日本の四大証券会社であった。1897年に創業し、戦後の一時期には日本最大の業績を誇る証券会社であった。1965年以降は四大証券会社のうち第4位となったものの、法人関連の業務に強く「法人の山一」と称されることもあった。

1970年代から1980年代半ばまで、高度経済成長からバブル景気の波に乗って証券会社は空前の好景気に沸いていた。
当時は今のようにインターネットで株取引を行う仕組みは無かったので、株の売買は証券会社を通すのが普通であった。山一證券も、大口の法人顧客を多く抱えて売り上げを右肩上がりに伸ばしていった。


なぜ山一證券は破たんしたのか


証券会社の売り上げを伸ばすために重視されたものが、法人の顧客から支払われる営業特金であった。営業特金とは、証券会社が顧客から預かる運用資金のことである。法人顧客を多く抱える山一證券にとって営業特金の契約を勝ち取ることは会社の成長のために必要不可欠なことだった。そのため、ニギリと呼ばれる利回りを保証する行為が頻繁に行われるようになった。はっきり言うとニギリは違法行為であったが、当時は他の証券会社でも普通に行われていたことだった。


こうして営業特金で売り上げを伸ばしていった山一證券だったが、バブル崩壊により運用失敗の損失補てんに追われ、営業特金は1300億円の含み損に変わってしまった。この含み損を隠ぺいするため、決算の際に含み損を抱えた営業特金を他社に売却し、決算後に買い戻すという「飛ばし」行為が行われた。さらに海外にペーパーカンパニーを作り、そこに損失を移すことで帳簿上は債務を隠すことにした。

「株価さえ上がれば含み損を回収できる」という上層部の思惑のもと、問題は先送りされていった。しかし株価は下がり続け、簿外債務はみるみるうちに膨れ上がっていった。そんな自転車操業がいつまでも続くはずはなく、とうとう1997年にこれまでの損失と不正行為が明らかになり、山一證券は自主廃業に追い込まれてしまった。
当時、社長であった野澤正平氏は記者会見のカメラの前で「社員は悪くありません。悪いのはすべて経営陣です」と号泣しながら頭を下げた。この「号泣会見」には賛否両論が巻き起こったが、野澤氏は自主廃業のわずか3カ月前に社長に就任したばかりで、就任当時は2600億円にものぼる簿外債務の存在すら知らなかった。


倒産の後始末のため、最後まで会社に残った社員たち


こうして破たんした山一證券。自主廃業が公表された後、最後まで会社に残り経営破たんの真相を追究しながら精算業務に奔走した社員がいたことは意外に知られていない。そんな社員たちの物語を描いたのがノンフィクション「しんがり 山一證券 最後の12人」(清武英利著、講談社)である。


山一證券の自主廃業のニュースが流れた後、店頭には運用資金と株券の返却を求めて顧客が殺到し、大半の社員や幹部は逃げるように再就職していった。そんななか、会社に踏みとどまったのが業務管理本部の12人の社員である。業務管理本部は、主に会社の不正を監視する部署だったが、利益第一主義の証券会社の中では「金を稼がない」と揶揄され、何かと煙たがられる存在であった。

なぜ2600億円もの簿外債務が発生したのか、誰がどのようにして債務隠しを行ったのか、元社員や顧客に対してどう責任を果たしていくのか。山積する問題に真正面から立ち向かったのは、社内で「場末」呼ばわりされた部署の社員たちだった。「しんがり」では、最後まで会社に残って真相追及と精算業務に携わった社員たちの言葉が克明につづられている。


「しんがり」は2014年度講談社ノンフィクション賞を受賞し、2015年9月にはWOWOWでテレビドラマ化された。

山一證券の破たんはバブルの崩壊と社内の不正行為によってもたらされたが、同時に日本の企業の古い組織体質の問題も明らかにした。それは日本の企業の終身雇用と年功序列の終焉でもあった。山一證券の破たん後、日本が長い不景気の時代に突入していったことを考えると、「ひとつの時代の終わり」という言葉で片付けてしまうにはあまりに大きな時代の幕切れであったといえる。