氷川きよしのような若いイケメンではない。ジェロのような外国人でもない。
いわゆる、何か特別な「引き」があるわけではなく、マイクを握るのは還暦間近のお爺さん。ルックスも至って地味です。
そんな、どこにでもいるような演歌歌手の歌が、90年代の終わりにミリオンセールスを記録してしまうのだから、何が起こるか分かりません。この世にも奇妙な社会現象を巻き起こしたのは、『孫』とい一枚のCDでした。

本業はさくらんぼ農家の経営者・大泉逸郎


歌い手を務めたのは大泉逸郎。彼の経歴を辿るほどに分かるのは、本当にごく普通の人だということ。山形県出身・在住で、本業はサクランボ農家の経営者。現在も地元で収穫に精を出している、地に足の着いた働き者の農夫で、趣味は熱帯魚の飼育だそうです。
そんな素朴な一般人・大泉が歌に本腰を入れ始めたのは、1977年のこと。アマチュア民謡歌手として、東北・北海道民謡大賞を受賞したのがきっかけでした。もちろん、本業のさくらんぼ農家を優先させていたため、歌手はあくまで副業というスタンス。「絶対に売れてやろう!」「東京で一花咲かせてやろう!」などという功名心はなく、マイペースに地元で活動を続けていました。

52歳で“孫”をもったことが人生のターニングポイントに


こうしたありきたりな人生を謳歌していた大泉に、転機が訪れます。1994年、初めての孫が生まれたのです。
大泉家の跡取りとなり得る、玉のような男の子でした。「なんで、こんなにかわいいのかよ……」。
初孫・慎太郎を腕に抱きながら、52歳にして“おじいちゃん”となった大泉は、そんな感慨に浸っていたに違いありません。多くの人が、生涯の折り返し地点を過ぎたあたりのどこかで抱くであろう幸せ。それを胸いっぱいに噛み締めていたわけです。

友人に作詞を依頼、大泉逸郎は作曲を担当


このまま、単に孫を溺愛していただけだと、大泉逸郎は永遠に名もなき市民の一人でいたはずです。そうならなかったのは、彼には歌があったから。孫が誕生して3日目、下がる目じりがえびす顔になりっぱなしの大泉は一つの決意をします。「この感動を歌にしよう」と。
思い立ったらすぐ行動。友人で作詞家の荒木良治へ連絡を取り、自身が構想した曲の作詞を依頼しました。自らは作曲を務め、こうして自主制作盤の『孫』は完成したのです。

紅白歌合戦に出演した大泉逸郎、当時の白組最年長初出場記録を達成


その後、地道な営業活動により、地元を中心に話題を集めるようになっていった『孫』。
ついには1999年、テイチクレコードからメジャー発売が決まります。そこからテレビ番組などで「こんなにいい演歌がある」と何度も紹介されたことで人気に火が付き、オリコン演歌チャートで1999年11月29日~2000年5月22日まで26週連続1位。総合チャートでも最高3位になり、累計100万枚以上の売り上げを記録したのです。
この大ヒットを受け、大泉逸郎はこの年、紅白歌合戦にも出場。当時の白組歌手最年長初出場記録というオマケまで付いて、大晦日のひのき舞台を踏んだのでした。

この『孫』の誕生前、演歌業界において、100万枚以上を売り上げるヒット曲は、20年近く生まれていませんでした。誕生から20年以上を経た2016年現在も、もちろん、そんな流行歌はありません。
まさに空前絶後。この快挙を成しえたのは、豪華なタイアップや練りこまれたプロモーション戦略、ましてや敏腕音楽家によるプロデュースでもなく、一人の爺が抱いた溢れんばかりの孫への愛情があったからです。その純粋で飾り気のない気持ちのこもった詞と曲、歌唱に、リスナーが心底共感した結果だったのでしょう。
(こじへい)

※イメージ画像はamazonより孫 Single
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