今から150年ほど前の1868年4月。徳川太平の世を司るシンボル・江戸城が、明治新政府に明け渡されました。
700年近く続いた武士の時代が名実共に終わりを迎え、新時代がスタートした瞬間です。城内に入城する新政府軍。彼らが真っ先に捜したもの。それは幕府が所有しているはずの御用金でした。金360万両、現在の貨幣価値にして200兆円という破格の資産です。
ところが、金蔵は空。
他の場所もくまなく当たってみましたが、いくら探しても見つかりません。それから10数年、この幻の御用金を巡って様々な考察が為された後、群馬県・赤城山中に埋められているとの噂が流れます。以降、数多くの人によって発掘が試みられたものの、時代が明治、大正、昭和に移り変わっても大した成果は得られず、いつしかこの通説は人々の記憶から忘れ去られていきました。

糸井重里を発起人として、発掘に向けたプロジェクトチームが結成


時はさらに流れて、1990年代初頭。徳川埋蔵金発掘は、テレビ番組のプロジェクトによって再び、脚光を浴びることとなります。企画が組まれたのは、先日逝去した大橋巨泉がMCを務めたTBSのエンターテイメント番組『ギミア・ぶれいく』。バラエティーとドキュメンタリーを主軸とした、火曜・ゴールデンの2時間番組でした。

コピーライターの糸井重里を中心に発掘チームが結成され、バブル期のテレビ局ならではの莫大な資金をもって実施されたこのプロジェクト。作業開始にあたって、番組は「水野家」という祖父・父・子の三代に渡って埋蔵金の発掘に挑戦する一族と手を組みます。

100年以上も埋蔵金発掘に執念を燃やす水野一族


この水野家の初代・智義が埋蔵金発掘に目覚めたのは、明治16年のこと。かつて幕府の武士だった男から、一通の手紙を受け取ったことに起因します。そこに記されていた内容こそ、幕府再興のために秘匿された軍資金・金360万両の手がかりでした。元々、武家の生まれで、幕末は白刃を握り薩長と死闘を繰り広げた智義。その命を賭して奉公した幕府が、最後まで守り抜きたかった宝のありかを記した情報が、図らずとも、自分のもとに舞い込んできたのです。

御用金は法律上、自分の懐に全て入る類のものではありません。しかし、「ご恩と奉公」を終生生きるという、DNAレベルまで刷り込まれた彼の武士としての本能が、一通の文に込められた「大儀」を読みとらせたのでしょう。かくして、日本橋で両替商として成功を収めていた智義は、事業で得た資金を御用金の発掘に充てることを決意します。
明治23年には、黄金の徳川家康像を発見。その後も、近所にある寺の縁の下で、埋蔵金の在りかを記したとされる銅板を入手するなど、手がかりになりそうな遺物はいくつか発見されるも、肝心の金貨は一枚も見つかっていません。

最大60メートルの深さまで穴を掘るも…


初代・智義は大正15年に志半ばで死去。
その意志は子息に受け継がれ、3代目に当たる水野智之氏の時に、TBSからの協力要請は届きました。「彼らも一生懸命だったよ」。後に、水野氏は語っています。
現場で作業に取り掛かったスタッフは最大・90名。7台もの重機を駆使して行われた一大プロジェクトは、総額3億5000万円の費用が投じられました。
番組では「正体不明の空洞が!」「幕末のものと思われる重要な証拠が次々と!」など、ちょっとした発見でも過度に煽り、その動向に視聴者は興奮。
仕舞いには発掘のために、MAX60メートルの深さまで穴を掘ったり、水野家の一部を取り壊したりもしました。
しかし、どんなに手を尽くしても埋蔵金は出てきません。結局、紅白の裏番組に据えられるまで人気を博した徳川埋蔵金プロジェクトでしたが、大きな成果を挙げられないまま終了してしまいます。

番組は手を引きましたが、今でも水野家は発掘作業を続けているそうです。果たして、夢の200兆円は本当にあるのでしょうか……。
(こじへい)

あるとしか言えない―赤城山徳川埋蔵金発掘と激闘の記録