「わたくしがいま侵されている病気の名前…病気はがんです」
1993年9月6日、会見を開いたフリーアナウンサー逸見政孝さんの口から発せられた言葉は衝撃的なものだった。午後3時から日本テレビで行われた会見は、各局のワイドショーで生中継された。


「わたくしは1年後に亡くなるのは本意ではありません」
そう述べ、手術に至る経緯が報告される。13年前に31歳の若さで弟を胃がんで亡くしていること、医師から手術の成功確率は数%と言われたことなどが語られた。スーツを着込み、アナウンサーとして冷静沈着な態度を保っているように見えて、眼鏡の奥の瞳には動揺も感じ取れる。

名司会者だった逸見政孝さん


当時の逸見さんは、フジテレビを退職しフリーとなり5年目。『平成教育委員会』(フジテレビ系)でビートたけしと共演し、92年~93年には『FNSの日(27時間テレビ)』(同)の総合司会を務めている。他局でも『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』『夜も一生けんめい』(ともに日本テレビ系)といくつもの看板番組を持ち、人気司会者として名を馳せていた。
記者会見ではすべての番組を3ヶ月休み、闘病に専念すると宣言。
さらに「公表したということによって自分にこれからはがんと戦うのだということを言い聞かせる」とも述べた。

会見終了後、レポーターたちの間からは拍手が巻き起こり「生還してください!」と力強いエールが向けられた。所属事務所には激励の手紙、電話、FAXが殺到したという。

会見からわずか3ヶ月後…帰らぬ人に


9月16日に逸見さんが受けた手術は、胃の全摘出のほか、脾臓、大腸、小腸の一部を摘出し、欠損した腹壁を大腿部からの皮膚移植で形成する大がかりなもので13時間におよんだ。
術後は順調に回復を続けるも、腸閉塞の発症、がんの再々発が起こり、会見からわずか3ヶ月後の12月25日に帰らぬ人となってしまう。48歳の若さであった。

批判もあった逸見さんの手術


死後、会見の時点で逸見さんのがんは全身に転移しており、手術をすべきではなかったといった批判も生じた。実際、逸見さんはこの年の1月にも胃がんの手術を受けており(世間には十二指腸潰瘍と発表)、会見時は再発した状態であった。


当時は、痛みを和らげながら、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)を維持する緩和ケアは今ほど浸透していなかった。医師の山崎章郎が書いた『病院で死ぬということ』(主婦の友社)がベストセラーとなり、小泉今日子が末期がん患者を演じた『病は気から 病院へ行こう2』といった映画が作られていたころである。(両作では終末期医療を行うホスピスが取り上げられている。)

多くの人間が悼んだ逸見政孝さんの死


逸見さんの訃報はテレビの速報テロップで流され、多くの人間がその死を悼んだ。小学生だった筆者も、とても悲しい気分になったことを覚えている。
辛口コラムニストとして知られたナンシー関が「他の芸能人の時とは違い、まるで自分の親戚が死んでしまったかのような気持ちになった」と記した感覚はよくわかる。
あれほど生への執着を見せても、叶わない願いもある。そんな理不尽さを子供ながらに感じていたのだろう。

通夜のあと逸見さんの棺は、TBS、テレビ朝日、テレビ東京、NHKを周り、告別式ののちは日本テレビとフジテレビを通り荼毘に付された。東京のすべてのテレビ局をまわったことになる。“いっつみい”の愛称で知られた逸見政孝さんは紛れもなく国民的アナウンサーであった。
(下地直輝)

参考文献:「ガン再発す」逸見政孝,晴恵(角川文庫)

※イメージ画像はamazonよりガン再発す