相変わらず、長谷川らしいな。

オリックス長谷川滋利シニアアドバイザーの一連の騒動をニュースで追いながらそう思った。
自身の講演会で「日ハムから監督オファーがあったが、リーグ優勝で消滅した」と話し、それを伝え聞いた日本ハム側が「事実無根」と激怒。オリックス側が事情を説明し、謝罪をする騒ぎとなった。
今月1日付けで現職に就任したばかりの長谷川本人は「講演を盛り上げるために言ったので…」と釈明したが、誤解を恐れず書けば、良くも悪くもこれが長谷川滋利という男なのである。

投げるインテリジェント・モンスター


頭がキレて饒舌で時に軽い、68年兵庫県生まれの投げるインテリジェント・モンスター。立命館大学から即戦力右腕として90年ドラフト1位でオリックス入団。背番号17を託され、1年目にいきなり12勝を挙げる活躍で新人王を獲得すると、96年までのチーム在籍6年間で4度の二桁勝利を記録。
そして、97年1月には日本人選手史上初の日米間の金銭トレードで当時のアナハイム・エンゼルスへ移籍した。
同い年の野茂英雄がロサンゼルスでトルネード旋風を巻き起こし、その活躍に触発されたのかと思いきや、長谷川は野茂渡米より数年早く自身のアメリカ行きを球団側に相談していたという。

クレバーだった長谷川滋利の交渉


元オリックス球団代表の井箟重慶氏の自著『プロ野球もうひとつの攻防』によると、長谷川はプロ入り間もない92~93年オフの雑談でメジャー話に触れ、翌年から本人がメジャー移籍希望をはっきりと口にするようになる。
ここで長谷川らしいのは「海外FA取得までは待てない。でも僕は球団とケンカ別れはしたくないんです。ぜひ、円満にメジャーに行かせてください」とクレバーに交渉していることだ。メジャー移籍容認の条件は「チームの優勝」。すると95年オリックス初優勝、96年には巨人を倒し初の日本一。
時は来た。28歳の長谷川は約束通り契約更改の席でこう切り出した。
「代表、もういいんじゃないんですか?」

リリーバーとして開花したメジャー時代


97年1月14日、現地でのエンゼルス入団発表では英語のスピーチを披露。正直、何だかよく分からないアメリカンジョークは滑りまくったものの、その明るく軽いノリは寡黙な野茂とは対照的なキャラクターで注目を浴びた。
メジャーでは先発投手としては結果を残せなかったが、リリーバーとして開花。2000年には先発登板なしで二桁勝利も記録。02年のシアトル・マリナーズ移籍後は再びイチローとチームメイトとなり、大魔神佐々木の代役でクローザーを任せられることもあった。


結局、エンゼルスで5年間、マリナーズで4年間の計9シーズンを生き延びたメジャーリーガー長谷川。野茂や佐々木のような圧倒的なフォークボールも、伊良部秀輝のような剛速球や立派な体格がなくても、地道にウエイトトレーニングと英会話を続け、毎年のように60試合近く投げまくり、現役最終年の05年も46試合に登板。
まだやれると誰もが思ったが、37歳であっさりと引退表明。それは1学年上の清原和博や桑田真澄が、ボロボロになりながら現役にこだわる姿とは対照的な引き際だった。

余力を残しての引退…その理由は?


この余力を残しての引退理由を自著の中で長谷川は「僕はそこまで野球が好きではなかった。というより、メジャーの生活がつらくなってきた」と告白している。
オフもトレーニングしなければならないし、スプリング・トレーニングでは1カ月半も家族と離ればなれ。シーズン中の遠征も長ければ2週間に及ぶから、家族の顔もなかなか見られない日々。もうそういうのがつらくなってきたのだと。

この言葉に、まだ学生時代の長谷川の発言を思い出した。90年ドラフト直前の週刊ベースボール『オリックス逆指名も「就職活動」のうち』と見出しがついたインタビュー記事内で、22歳の青年はこんな言葉を残している。
「ドラフトもひとつの就職活動ですから(中略)。
プロの世界って・・・あくまで自分の考えですが、短期間でお金を稼げるところ、と思いますね。成績がそのまま金額に表れるでしょう。ただ野球をやるというだけの就職なら、社会人も一緒ですから」


まさに始まりから終わりまで、日本でもアメリカでも見事なまでに自らの哲学を貫き通して「プロ野球選手」という職業をやりきった長谷川滋利。ちなみにMLB通算517登板は、今なお日本人投手最多である。
(死亡遊戯)


(参考資料)
長谷川滋利のメジャーリーグがますます楽しくなる観戦術(ワニブックス)
プロ野球もうひとつの攻防 「選手vsフロント」の現場(井箟重慶/角川SSC新書)
週刊ベースボール(平成2年12月3日号)

※イメージ画像はamazonより適者生存―長谷川滋利メジャーリーグへの挑戦 1997‐2000