先日の侍ジャパンの強化試合で不甲斐ない若手捕手達のプレーに厳しい言葉が飛び交った。
リードや肩はもちろん、打撃でもチームの中心。そんな彼らの頂点に君臨していたのが、平成最強捕手・古田敦也である。
「平成最強捕手」古田敦也
88年ソウル五輪では野茂英雄(89年近鉄ドラフト1位)や潮崎哲也(89年西武ドラフト1位)とバッテリーを組み、銀メダル獲得。
古田自身もトヨタ自動車から89年ドラフト2位でヤクルトに入団すると、就任1年目の野村監督の目に留まり正捕手に抜擢され、いきなり106試合に出場、2年目には打率.340で捕手としてはセ・リーグ初の首位打者獲得。翌92年にはオールスター初のサイクル安打達成、ペナントでも30本塁打を放ちチームの14年ぶりのリーグ優勝に貢献した。93年は盗塁阻止率.644(企画数45、盗塁刺29)という驚異の日本記録をマーク。自身はセリーグMVPにも選ばれ、野村ヤクルト初の日本一に輝く。
ついでに95年、当時の人気女子アナ中井美穂と結婚。97年にも再びチームを日本一に導き、MVPと正力松太郎賞をダブル受賞。
まさにプロ入り後、数年で「平成最強捕手」へと駆け上がったシンデレラボーイ。その後も、強いヤクルトをど真ん中で支え続け、選手生活晩年にはプロ野球選手会長として、04年球界再編では史上初のストライキを敢行し、12球団制を維持。06年にはヤクルトの選手兼任監督に就任。
古田敦也が味わった挫折
この輝かしい経歴を誇る男の根本にあったのは、あるひとつの挫折経験だった。引退後に発売された『古田の様』という本の中で、当時の様子が残酷な程に書き記されている。古田が立命館大4年時に迎えた87年ドラフト会議前日、野球部中尾監督のもとに日本ハムのスカウトから連絡が入る。
「明日は古田君を上位指名で行かせてもらいますから、よろしくお願いします」
そのことを古田に伝えるともちろん大喜び。ドラフト当日は大学側が用意したひな壇に座り、多くの報道陣とともに歓喜の瞬間を待った。上位指名ということは、1巡目か2巡目。「日本ハム古田敦也」の誕生はすぐそこまで来ている。いや指名を示唆していた球団は他にもあったぞ。どうなる俺の運命……。
日本ハム1位は武田一浩(明治大)、ならば自分は2位か。と思ったら、日本ハム2位は小川浩一(日本鋼管)という社会人内野手。誰やねんそれ。
この時、ひな壇に座っていた当時22歳の古田は何を思ったのだろうか? あまりに残酷なプロ野球の現実。寮に戻った古田は打ちのめされた表情で、後輩の長谷川滋利(90年オリックスドラフト1位)に「長谷川、あかんかったわ」とだけ呟いた。翌日、電話をかけて来た日本ハムスカウトは嘘か真かこう謝罪したという。
「ドラフト当日、クビにするつもりのキャッチャーの残留が決まり、枠がなくなった」
古田指名を見送った理由は?
そしてドラフト後、各球団が古田指名を見送った理由が聞こえて来るようになる。「メガネをかけているから」と。つまり全球団が、当時の野球界では珍しいメガネをかけた捕手を敬遠したわけだ。このメガネ問題は、トヨタ自動車でアマ球界No.1捕手に成長した2年後のドラフトでも尾を引くことになる。
ヤクルトの片岡宏雄スカウトが古田指名を進言すると、野村監督は「メガネのキャッチャーはいらん。大学出の日本代表と言っても所詮アマチュア。それなら元気のいい高校生捕手を獲ってくれ。
『眼鏡のキャッチャーはいらない、と言ったはずが、今では「古田はわしが育てた愛弟子」にすり替わっている』
プロ野球史上最高の通算盗塁阻止率.462、打撃では通算2097安打を放った背番号27。なお同時代に阪神で正捕手を勤めていた矢野輝弘は、そんな古田のぶっちぎりで凄いところとして「キャッチング技術」を挙げている。
古田敦也、22歳の屈辱。あの時、プロ野球界から無視された「メガネの捕手」は、球史に名を残す「平成最強捕手」として今後も語り継がれていくことだろう。
(死亡遊戯)
(参考文献)
古田の様(金子達仁著/扶桑社)
プロ野球 スカウトの眼はすべて「節穴」である (片岡宏雄/双葉新書)
週刊プロ野球セ・パ誕生60年 1997年(ベースボール・マガジン社)