1990年4月30日、荻野目慶子(当時25歳)の自宅で、新進映画監督の河合義隆監督(享年43)が首を吊っているのが発見された。河合は間もなく死亡が確認された。


その後、河合は既婚者で子どもがあったことが判明。二人は不倫関係にあったのだ。
当時の報道によると、第一発見者は、地方のロケから帰宅した荻野目だった。河合は、キッチンとリビングの間のドアにマフラーをかけて首を吊っていたという。当時まだ20代の荻野目にとり、その衝撃は大変なものだったろう。

演技指導しているうちに関係が深まり…


荻野目と河合の出会いは、事件よりさかのぼること約5年、荻野目が20歳のころ出演していたドラマ「幕末青春グラフィティ・福沢諭吉」。二人の関係は、河合が荻野目に演技指導をしたことに始まり、徐々に親密になっていったという。

やがて、河合は彼女のマンションに通いつめるようになった。とはいえお決まりのごとく、まもなくその関係は河合の妻に知られるところとなり、しばしば修羅場が繰り返されるようになっていった。

河合の死後、警察による事情聴取で荻野目は、自分から別れ話を持ち出したこと、それに対し河合から「別れるぐらいなら死にたい」と言われたことを語ったという。不倫の関係は妻を巻き込み、ドロドロの愛憎劇の様相を呈した結果、悲劇的な最後を迎えた。
しかし半面、荻野目は修羅場が続く中にあっても、まるでそれをエネルギーに転換していったかのように仕事のほうは順調そのもの。女優としてめきめきと頭角を現していった。


女優としてさらに熟度を増した荻野目慶子


そもそも荻野目は1979年、舞台「奇跡の人」の主役・ヘレン・ケラーの役のオーディションに合格したのがデビューのきっかけという実力派だ。事件後も、その才能を思う存分に発揮し、映画にドラマにと精力的に出演を重ねた。

事件の1カ月後には五社英雄監督の「陽炎」に、1年後には深作欣二監督の「いつかギラギラする日」に出演。さらには、自殺した河合が撮影した写真のおさめられた写真集「SURRENDER」を出版し、女優としての評価をますます高めていった。

再び映画監督と不倫関係に…


同時に、またもやそこに、荻野目の「魔力」に魅了された愛人が現れる。
その愛人とは深作監督。深作監督は癌に冒されていたが、彼女に入れ込むあまり男性としての機能を失わないようにするため、癌治療に有効な女性ホルモンの投与を断ったといわれている。

二人は、監督が癌で病死するまでの約9年間、不倫関係にあった。

事件以後の状況を、改めて俯瞰してみた。
河合の、情念に突き動かされたような衝撃的な行動、深作監督の執念にも似た思い、そして荻野目の女優としてのしなやかさ、したたかさ…荻野目をめぐる一連の人間模様は、人間の本能をむき出しにし、その業を描いた濃厚なドラマを思わせる。
そして愛人による衝撃的な事件や死は、荻野目の女性としての濃度を高め、女優としての熟度を増し活躍の範囲を広げる、キーコンテンツとなったようにも見える。
(せんじゅかける)

※イメージ画像はamazonよりLegend Gold 異邦のマリア 荻野目慶子 [DVD]