日本最高のエースは誰か議論が分かれても、日本球界最強のクローザーはあの男しかいない。

佐々木主浩の輝かしい実績


泣く子も黙る大魔神・佐々木主浩。伝家の宝刀フォークボールを武器にNPB252セーブ、MLB129セーブの日米通算381セーブの金字塔。

95年から98年まで4年連続最多セーブを獲得し、横浜が38年ぶりの優勝に輝いた98年は51試合で45セーブを挙げ、驚異の防御率0.64でMVPと正力松太郎賞をダブル受賞。横浜駅東口の地下街には「ハマの大魔神社」まで作られるフィーバーぶり。

年俸も5億円を突破、もはや日本にやり残したことがなくなった佐々木は、99年オフにFAでシアトル・マリナーズへ移籍する。そこでもいきなり37セーブでア・リーグ新人王を獲得すると、翌01年にも日本人最多記録の45セーブ。オールスターにも出場した「DAIMAJIN」は、04年に横浜に復帰すると翌05年限りで現役引退。引退試合での同学年・清原和博との涙の対決は今でも語り草だ。


と、ここまでは野球ファンなら誰もが知ってる佐々木主浩のサクセスストーリーだと思う。でも、これより前のまだ「大魔神」と呼ばれる前の背番号22の素顔は意外と知られていない。無名の若手ピッチャー時代、この男は数々の逸話を残している。今回は佐々木が引退してから数年経って世に出た著書『奮起力』でカミングアウトされた、とんでもない豪快伝説を振り返ってみよう。
 

佐々木主浩、懲罰で8回も坊主に…


東北高校でエースとして甲子園に出場した佐々木少年は、死にたいくらいに憧れた東京生活を夢見る18歳。ここでオシャレな青山学院大学の進学を希望するも、高校の野球部監督から猛烈なダメ出し。理由は「東京へ行ったらお前は遊ぶ」から。
これに対して、佐々木本人も「確かに、東京の大学へ行ったら私は間違いなく遊んだはずだ。もし東京に行っていたら、今の私はない」と躊躇なく認める潔さ。
地元の東北福祉大学に進むも、1年の時にいきなり先輩とケンカして寮を飛び出し、友達の家へ逃避行(その後あっさり連れ戻される)。なんと佐々木は大学時代に懲罰で8回も坊主になっているという。もはやそのペース、普通の散髪なんじゃ……なんて突っ込みは野暮だろう。

日ハムに指名される可能性もあった佐々木


2年生の終わり頃には、今度も先輩とぶつかり寮を飛び出て東京の女友達の元へ。もう大学を辞めるつもりだった佐々木は、東京でアパートを借りるという凄まじい行動力を発揮するも、そこに親が踏み込んでまたも連れ戻される。
結局、大学時代にまともに野球をやったのは4年生の時だけと言いながら、89年ドラフトで大洋ホエールズから1位指名を受けるのだから、野球の実力はやはり図抜けていた。

ただ、このドラフトでは1位指名を確約していた大洋が、いきなり野茂英雄を1位入札したことに「話が違う」と激怒。ハズレ1位指名となったわけだが、なんと日本ハムの故・大沢啓二常務が強引に佐々木を1位指名する寸前だったという。
この2年前、日ハムは大学時代の古田敦也に上位指名を確約しながら直前で謎の指名見送り。もし、それぞれの運命が少しずつズレていたら、日ハムで「佐々木-古田」の球史に残る黄金バッテリーが実現していたかもしれない。

プロ入り後も規則ガン無視


プロ入り後すぐ、佐々木は契約金で念願のポルシェ928を購入。
もちろん新人は入団1年間運転禁止という球団規則はガン無視して、寮の外に個人で駐車場を借りる荒技だ。先輩選手に注意されると「自分のお金で買った車だからいいじゃないですか」と反論。この時期、佐々木は球団の寮には帰らず、横浜市内にマンションを借りて寝起きしていた(もちろん規則違反)。

そして翌91年シーズン、彼女が佐々木の愛車ポルシェで事故って、住まいに車とあらゆることがバレるも、当時の須藤監督はこう言ったという。
「まあ、ええか」

ってええんかい! 一応断っておくと、これは昭和40年ではなく、すべて平成に起こった話である。ユルユルでおおらかな時代にも助けられ、本業の野球では2年目に早くも頭角を現し、58試合に登板して17セーブ。
やがて「大魔神」と呼ばれる球界最強クローザーへと変貌していくことになる。

まるでガキ大将がそのまま大人になったような、破天荒すぎる野球選手。豪快なエピソードと同時に、筋の通らない後輩いじめを拒否し、解雇された先輩選手の代わりに球団とケンカする男気溢れる一面もあった。ちなみに波乱万丈の大学時代、なんとしっかりと教職課程を修了して教員資格を取得済み。佐々木主浩、底知れない男である。
(死亡遊戯)


(参考資料)
『奮起力』佐々木主浩(創英社/三省堂書店)
週刊プロ野球セ・パ誕生60年 1998年(ベースボール・マガジン社)